洞察を陶冶し、行動は他者のために。哲学徒で鍵盤男子。
親しみが馴れ合いに堕してしまうのなら、その友情の質を問わねばなるまい。
一行哲学
そうですね。友情にしても愛情にしても、はたまた心情であるにしても、お互いを高めあうことが「情け」という言葉であるなら、ときには互いを厳しく律することも必要であると思います。 by kyao (2009-05-25 14:40)
★kyaoさん、互いを高めあう存在であり続けることこそ、健康かつ得がたき友情であると思っています。日常生活を送る中でつい「心にもないこと」を話したり、「相手への配慮のために」という自己弁護をしつつ、得心のいかない言葉を使い続けるのは、やはり肯定できないのです。友情がその2人にとって信頼あるものならば、時に厳しい指摘も「率直に受け止める」ことができるものと信じます。 by 参明学士 (2009-05-26 18:13)
親しき仲にも礼儀あり!ですよね仲良くなって友達だと思っても後々しんどくなることが多いですん~人それぞれの親しさもあって難しいっ!友達であっても家族であってもマナーはあると思うのでそういうものに惑わされぬよう親しくしていきたいと思いました by ななはち (2009-05-27 21:42)
★ななはちさん、本質的な「親しさ」を築いていくことは、想像以上に難しいものですよね。相手への配慮ばかりでは自己が表現できず、結果として己を殺してしまう。自己を貶めることは何ら良いことがありません。かと言って己を前に出せば相手を萎縮させることがある。「それじゃあ、一定の距離を保ちましょう」というのも、何ら深みのない結論になってしまいがちです。それは自己保身の異名とも言えましょう。やはり問題は相互の感情に配慮することはもちろん、その配慮が「いの一番」にならないことが大切で、互いに互いの存在が「心身に亘る成長」を与える環境なのだと捉えることこそ必要なのかもしれません。そして根底的には人間関係を「気分や感情だけで判断しない」というスタンスが求められるものとも思います。人間関係を「イヤなものはイヤ!」と断じてしまうと、それ以上、何ら進展は望めませんし、何より互いの可能性を閉じてしまう恐れもありますよね。可能性を閉じてしまう側に回ることを戒めていくことが自己を高めていく一つの方法とも言えそうです。そのためには「粘り強さ」は人間が生きていくためには重要な用件であると思われます。これらを総合して行動することは、現代社会において容易ではないことだと思います。しかし、容易ではないことに挑戦していく中で「人間としての深み」の境地に到達するとも考えられます。適切で健全な「親しさ」には、時に厳しい指摘を行うことも含まれると思います。そうやって、互いを高めあっていこうとする気概を持ち寄る関係こそ、本質的な「親しさ」に通ずるのではないかと思う一人であります。 by 参明学士 (2009-05-28 12:07)
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そうですね。友情にしても愛情にしても、はたまた心情であるにしても、お互いを高めあうことが「情け」という言葉であるなら、ときには互いを厳しく律することも必要であると思います。
by kyao (2009-05-25 14:40)
★kyaoさん、互いを高めあう存在であり続けることこそ、健康かつ得がたき友情であると思っています。日常生活を送る中でつい「心にもないこと」を話したり、「相手への配慮のために」という自己弁護をしつつ、得心のいかない言葉を使い続けるのは、やはり肯定できないのです。
友情がその2人にとって信頼あるものならば、時に厳しい指摘も「率直に受け止める」ことができるものと信じます。
by 参明学士 (2009-05-26 18:13)
親しき仲にも礼儀あり!ですよね
仲良くなって友達だと思っても後々しんどくなることが多いです
ん~人それぞれの親しさもあって難しいっ!
友達であっても家族であってもマナーはあると思うので
そういうものに惑わされぬよう親しくしていきたいと思いました
by ななはち (2009-05-27 21:42)
★ななはちさん、本質的な「親しさ」を築いていくことは、想像以上に難しいものですよね。相手への配慮ばかりでは自己が表現できず、結果として己を殺してしまう。自己を貶めることは何ら良いことがありません。かと言って己を前に出せば相手を萎縮させることがある。「それじゃあ、一定の距離を保ちましょう」というのも、何ら深みのない結論になってしまいがちです。それは自己保身の異名とも言えましょう。
やはり問題は相互の感情に配慮することはもちろん、その配慮が「いの一番」にならないことが大切で、互いに互いの存在が「心身に亘る成長」を与える環境なのだと捉えることこそ必要なのかもしれません。そして根底的には人間関係を「気分や感情だけで判断しない」というスタンスが求められるものとも思います。人間関係を「イヤなものはイヤ!」と断じてしまうと、それ以上、何ら進展は望めませんし、何より互いの可能性を閉じてしまう恐れもありますよね。可能性を閉じてしまう側に回ることを戒めていくことが自己を高めていく一つの方法とも言えそうです。そのためには「粘り強さ」は人間が生きていくためには重要な用件であると思われます。
これらを総合して行動することは、現代社会において容易ではないことだと思います。しかし、容易ではないことに挑戦していく中で「人間としての深み」の境地に到達するとも考えられます。適切で健全な「親しさ」には、時に厳しい指摘を行うことも含まれると思います。そうやって、互いを高めあっていこうとする気概を持ち寄る関係こそ、本質的な「親しさ」に通ずるのではないかと思う一人であります。
by 参明学士 (2009-05-28 12:07)