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日本兵捕虜は何をしゃべったか(山本武利) [本ココ!]

 久々に良質な書を読んだ。『日本兵捕虜は何をしゃべったか』とは帝国主義時代の日本における最前線兵士の内情を分析しようとする者にとって非常に気にかかるタイトルだ。第2次世界大戦に関わる出来事というのはその後の各国のイデオロギーやナショナリズムによってぼやけたり歪んだりして見えやすいが、本書のようなアプローチで追求された「大日本帝国兵士の最前線の姿」は非常に興味深く、またその内容も新鮮かつ鮮烈である。現在では英霊合祀とか靖国参拝問題などで安直な感情論に流されがちな論評も見られるが、そうした認識にも一石を投じることになり得る書である。大戦中の大日本帝国兵士の本当の姿を当時捕虜になった兵士自らが証言している。最前線の兵士の心情を吐露した記録が現存していることに率直に驚いた。それは論評などではなく、「現場の声」そのものである。その記録が現代に生きる我々の参考にすべき内容のものであることは十分に肯定されてしかるべきであろう。

日本兵捕虜は何をしゃべったか

日本兵捕虜は何をしゃべったか

  • 作者: 山本 武利
  • 出版社/メーカー: 文藝春秋
  • 発売日: 2001/12
  • メディア: 新書

・捕虜について

 まず「捕虜」という考え方だが、実は当時日本は捕虜という考え方を認めておらず、公式捕虜数は把握されていない。何しろ捕虜になるくらいなら「自殺しろ」か「玉砕しろ」の世界である。もしおめおめと捕虜になった後に生きて日本に戻ろうものなら、間違いなく死刑(銃殺か強制的自害)が待っていたのである。まして捕虜を出した家族は非国民・不名誉のレッテルを貼られ死以上の苦しみを味わう可能性もあるから、実際に戦地で捕虜になっても日本に帰ろうという考え方を持った兵士はいなかった。それにしても極端に戦況が悪くなって補給が本土から全く途絶えても投降することが許されないという日本兵の生き地獄度合いはいかばかりであったろうか。日本兵として戦っても戦況は著しく劣悪な生き地獄、捕虜にもなれない地獄、原住民を不当に使役し恨まれる地獄、戦争とは一体何を生み出そうとするのか。
 ちなみに、国際赤十字が把握している日本兵捕虜数は20万8千人で大戦に関わった国としては著しく少ない数である。それは投降を禁じられていたからであろう。命を棄てざるを得なかった兵士達に同情の念を禁じえない。今になって戦地に散った英霊に感謝すべきなどと言っているが、当時は大日本帝国国家が兵士を見殺しにするシステムを作っていた。どうやっても生きてはいられない仕組みである。どれほど前線の兵士が我が国のありように憤慨したか。それが今になって手の平を返したように国家として「感謝すべき」という論調には強い違和感が残る。ともあれ、個性否定の時代に彼らは劣悪な条件の戦争最前線で何を思い感じていたのだろうか。

・日本と米国の決定的違いとは

 さて、当時日本は英語を敵国語として教育から排除したのに対し、アメリカは積極的に日本語を学ぶ仕組みを考えた。孫子曰く「彼を知り己を知れば百戦して危うからず」とあるが、日本は英語を使ったり学んだりすることを禁じた。「米国人はヤンキーと言って目を合わせると喰われる」などと国民にくだらぬことを吹き込んだ。ベースボールは英語だから禁止。英語はなるべく日本語に変換させた。あまりにも愚かでくだらなく悠長な国民撫育である。終戦直前に日本に竹やり部隊が登場するのも何も血迷った判断ではなかったろう。相手がどのような者なのか知らないのであるから本気で竹やりで戦えると思っていたのかもしれない。恐ろしいほどの無知である。一方で米国は日系人2世などを使いながら積極的に日本語習得に力を入れた。やがてこれが東南アジア戦線で大きく米軍に利するようになったのだ。そう、それが「捕虜からの尋問」に極めて有効だったのだ。加えて日本兵の戦死者から重要機密文書などを手に入れて、一斉に翻訳にかけた。それを集めて編集したものをワシントンに送った。マッカーサーはもちろんこれを重視し積極利用した。こうして日本側の作戦がほぼ筒抜けになってしまっていたのだから戦いに勝てるわけがない。物量戦だけではなく情報戦でも完全に負けていたのである。ガダルカナル島の戦いなども今日様々に分析されているが、ようは「日本軍の戦術は事前に米国の手の内にあった」のである。日本兵捕虜が機密を話したり、兵士が所持していた指令書などがどんどん翻訳されていた。それがすべてと言ってよいほどに勝敗を決定付けたのである。繰り返すが孫子の指摘は真に正鵠を射ている。「彼を知り、己を知れば百戦して危うからず」である。なお、山本五十六連合艦隊司令長官が視察飛行中に米軍に打ち落とされ落命するが、これも事前に情報が筒抜けであったことが捕虜証言、兵士の残留文書から判明しており、待ち伏せしていた米軍の罠にまんまとかかってしまったというのが真相らしい。

・日本の情報統制は?

 では日本は情報漏洩に対してどのような判断機軸を持っていたのか。日本は兵士の家族や恋人に対する電報・書簡による国内への情報統制はかなり厳しかったが、捕虜からの情報漏洩は全く想定外だった。まさか神聖な日本兵が鬼畜米英の捕虜になるなど想定外であったろうし、そこで機密を話すなど全く思いも寄らぬこと。だが前線の日本兵は疲れきっていたし、国家への忠誠よりも自己の命の保全を優先した。当たり前のことである。米国は日本の戦力削減のために捕虜を獲得することを構想。投降ビラ等を空からまくことで前線の日本兵の戦意を喪失を促し、降伏後は十分な食料と衣料と治療を施した。米国の日本兵捕虜への待遇が予想に反して良い事を知ると、捕虜達は次々に日本内部のことを語りだしたのである。ここで米国が日本語を教育してきた戦略が功を奏すことになる。結果、軍事機密はどんどん流出し、それを元に米国は対日戦の戦術を練るのである。日本軍の夜襲、朝駆けなどはお見通し、奇襲や奇抜な作戦も全くの無駄ということになった。
 米軍は次々と捕虜から情報を聞き出し、死体から相当数の文書を抜き取り即座に翻訳にかけた。すぐでなければ戦術的価値を失うからである。米軍は捕虜の証言と文書内容の整合性を判断し戦術を練った。翻訳部隊(ATIS=南西太平洋連合軍翻訳尋問部隊)を戦地の最前線まで連れて来ており、米兵は戦闘の最前線で日本語の翻訳を粛々と進めた。日本軍の作戦内容が米軍に筒抜けであった。日本が勝てる道理などなかろう。
 日本人は戦地においても日記をつけるが、米兵にそのような習慣はない。日記には戦術が記されていたり、命令が記されていたり、上官への悪口、現状への不満など、国民感情がリアルに読み取れる価値ある文書であった。偽造文書のような戦略は日本はとっておらず、事実上情報は筒抜けであった。大日本帝国は日本語は難解語であると自認している故に、敵国は解読できないと安易な判断をしたことも情報漏洩対策が甘くなった理由である。このように総じて日本は安直な精神支柱に寄りかかる傾向があった。「~なはずがない」、「天皇の軍隊は不敗」、「神風は必ず吹く」、「神国日本の繁栄疑いなし」などとおよそ戦争を遂行して勝利を得ようとする者の発想とは思えない。無知を通り越して幼稚ですらある。

・戦地での日本兵

 日本軍の上級将校の逃亡の多さには米兵もあきれていた。兵卒には威張り散らし嫌われぬいていた将校も多い。そうした上級将校が戦局不利と見ると脱走、敵前逃亡をやってのける。そうした態度に一般兵が憤慨していたことを捕虜が口々に語っている。ガダルカナルにおける戦いも百武中将や丸山中将が逃亡した。先述したが、捕虜は米兵による扱いを極度に恐れていたが、待遇の良さに驚き機密を積極的に機密を話すようになる。連合国軍の勝利のために果敢に協力すると訴える者も出た。
 また、従軍慰安婦のところに入り浸りの連隊長(丸山中将など)に怒り、軍医らの特定の人間だけが十分な食料やタバコを得ていることなどを捕虜が証言している。これでは兵士の士気など上がるはずがない。食糧不足により兵士の脱走、自殺が相次いでいることも証言。米兵はこうした証言により日本軍のモラル低下と士気凋落を分析している。従軍慰安婦は日本の周旋業者が朝鮮本土で行った日本兵の負傷者の看護などの「慰安役務」募集に騙されて集められたり、工場の女工募集広告で応募してきたのを慰安婦にしたりしていた。米軍はその慰安婦が寝床で将校から軍関係の情報を漏れ聞いていないかを調査しているが、そこでは将兵ともに酒に酔っても漏洩はなかったとされる。それにしても米軍はしたたかな戦略を採っている。情報収集にかけるエネルギーが日本のそれとは大違いだ。
 ちなみに日本論として有名な『菊と刀』の著者ルース・ベネディクトは日系人や日本人捕虜の面接、尋問記録などを参考に書いたのだという。「罪ではなく恥の文化」と判断したのもこうした捕虜の態度や恐れ(非国民、不名誉、村八分)を分析したものであろう。彼女自身は日本に来てもいないのにどうやって日本人を論じるのだという批判があるが、極限状態まで追い込まれていた戦地での日本兵の尋問内容にはホンネとタテマエがはっきりと映ったことであろう。ある意味で日本兵捕虜達は最高の分析対象でもあったはずだ。

・母への手紙と恋文と

 戦地に赴き、玉砕覚悟の作戦が明日にも決行されるという日に書かれた一般兵の手紙が残っており本書で紹介されている。悲しみを抜きに目を通すことなどできたものではない。著者も余計な分析を加えてはいない。ただ紹介されているのみである。人間はあくまで人間である。一読あらんことを。

・日本人の精神とは
 
 米軍は日本兵捕虜達への尋問等を総合判断し、日本人の天皇観は天皇個人への崇拝や神道など天皇制イデオロギーによる強固なものではなく、長い間の教育や軍隊生活によって強制された硬直的なものに過ぎないと断定した。そうした分析は今日の我が国を考える時、当たらずとも遠からずであったと評価できるものではないだろうか。GHQは戦後の日本の占領政策に大いに捕虜達から学んだ教訓を活かした。日本人は何に反発し、何を恐れ、何を護ろうとするのか。天皇の戦争責任に触れず、象徴天皇制を敷いたことはまさにその成果であった。日本兵捕虜は天皇についての肯定も否定も極度に嫌ったという。この体質は各捕虜について違いはなく、等しく同様の反応が見えたようだ。米軍はこうした日本人の気質を的確に捉えていた。あれほど戦時中は無謀な戦術を採って玉砕攻撃をかけてきた日本国の占領が驚くほどスムーズに完了したのは、まさに「日本人の気質」を日本兵捕虜から学んだことに起因している。現在、東京裁判が国際法上正当性を欠くという論議が再燃しているが、実際のところ連合国は国際法上のリーガルな判断による裁きよりも民族気質・民族性を重視した裁判を行ったのである。東條以下A級戦犯と呼ばれる人間を死刑にしたのも、国内反発はさほどでないということを判断したからだ。戦時中、日本兵捕虜は天皇を全く恨んでおらず、大本営や軍部、政府に対する不満をぶちまけていた。この不満は兵士だけではなく国民全体にスプレッドされたものであるとGHQは判断したのではなかろうか。ならば、東條以下政府要人を裁いても国民感情を害することはないと判断したはずだ。最高指導者である天皇を戦犯指定しなかった時点で元々国際法上の正当性など担保できなかったに違いない。故に連合国側、特に米国は日本の戦後安定の目的の為にあのようにせざるを得ない「行事」として東京裁判を演じたとは言えまいか。そう考えるとあの裁判が正当か否かということは今日それほどの意味を持つとは思えなくなる。米国のしたたかな戦略に完全に日本国は敗北したのだ。大切なのはこれからである。大戦を肯定しても否定しても「過去に囚われている間」は我が国の未来をより良くする動きにはなるまい。我々現代人は「過去を活かさねば」ならないのである。

・同じ轍は踏まず平和国家の道を

 大日本帝国は家族と恥とを人質にとって兵士を前線に送っていたに等しい。捕虜になるなら死を選べ。捕虜になれば母国の家族の不名誉だ。非国民となじられる。捕虜になってから帰還すれば死刑が待っている。前に進めず、後に退けず、降伏投降は許されず。鬼畜米英と吹き込まれ、目を合わせたら喰われるなどと脅す。
 つまり国家として個々兵の精神を極限まで発揚し、恥を煽り、火事場の馬鹿力を最大限に出させようというものに近い戦略を採っていたと考えられる。それは国家同士の総力戦(物量戦、思想戦、経済戦、国民性)といったマクロ的戦略をも上回る位置を占めていたと言われて仕方がない。米国は総力戦でぶつかってきているのに対して、日本は一般兵の奮戦を促してばかりいる。とても戦術とは呼べそうもない本土での竹やり部隊育成もまさにそれであろう。自国のことをこう言うのは一抹の寂しさがないではないが、太平洋戦争は勝てる道理などなかったのである。
 今日、一般兵士達の前線での苦しみや悲しみを考える時、二度と戦争をしてはならぬと決意を新たにするものだ。一般日本兵のように個々人の精神性を高く発揚・利用された民族であればあるほど、戦争は心身共に辛く厳しくむごいものとなる。日本兵捕虜はまさに現代に生きる我々にそれを教えてくれている。忠君愛国の美名のもとに散らざるを得なかった若かりし兵士に心からの哀悼をささげ、国家としての自責の念を未来永劫忘れてはなるまい。可能性多き青年を大量に日本は失った。これほどの国家としての損失があろうか。私は兵士達には感謝ではなく、ただただ強い悲しみの共有、つまり同情の念が沸き起こってくる。戦争は幾重にも張り巡らされたあらゆる不幸・不安・不足・分断のシステムである。我が国の尊き青年はそのシステムに殉じざるを得なかった。抗うすべも持たなかったであろう。何という人生か。何の為に生まれてきたのか。人類はこんなものをもたらすために進化・発展してきたのか。そう思う時に、はかなく散っていった兵士達に向けて必要なのは「感謝」よりも「不戦の誓い」と「平和・安寧の国家建設」、そして「国家による世界平和への寄与に向けての行動」であると強く確信するのである。


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