SSブログ

悪い人 [思索の散歩道]

悪い人を殺して

悪い人を殺して

悪い人を殺して

悪い人を全部殺したら、良い人だけの世界になるだろうか。

そんな文を読んだ。
分からない。私には分からない。ただ、そうすることで、良い人だけの世界が来るとは思えない。悪い人を殺した人を良い人だと決められるだろうか。私にはわからない。悪い人はきっかけや、出来事によって良い人に「なりえない」のか。良い人は、悪い人に「ならない」と言えるのか。
そもそも、良い人、悪い人の定義はなんだろう。
法律が完全に整えば、人は幸せになれるのか。それも違うだろう。

我ながら無知を知らされる。本来人間とは「わからない生き物」ではないだろうか。科学万能と言ってみても、人類は円の面積すら正確にはわからない。
目に見えないものの多さ。心、空気、空間、雰囲気。なんと目に見えないことの多いことよ。漫画の吹き出しのように、言葉や雰囲気や心情が見えたらどんなに楽なことだろう。そして辛いことだろう。
あぁ、人間は「目に映るもの」がどれほど「わずかなもの」なのかということに気付いていない。
全てを知れるなんてありえない。そんなことはありえないのだ。

目に見えないものに対しての畏敬の念。答えはないけれども、決して捨てたくはない。
世に言う「悪い人」の心の奥底に沈む「人間らしさ」を、私は決して見捨てたくない。


nice!(7)  コメント(40)  トラックバック(8) 
共通テーマ:日記・雑感

nice! 7

コメント 40

アキオ

悪いヒトを殺したら、、、
新しく悪いヒトを生み出すだけだと思います。。
なんだか、そうおもいます。

いい切れないし、自信もないけれど。
でも、そう思うんです。
by アキオ (2005-04-01 20:10) 

kyao

自分以外の人は自分ではありません。だからある意味、みんな悪者です。
自分自身さえ嫌いになることもあります。なら、自分自身も悪者です。
逆に言えば、他者を分かろうとする努力。分かり合おうとする努力をしなくなったとき、人は真の悪者になるのだと思います。他者は自分を映す鏡でもあるのですから。
私も参明学士さん同様、パンドラの箱の最後に残されているものが「善きもの」であると信じたく思います。
by kyao (2005-04-01 20:14) 

りんたろ

悪いだけの人もいなければ良いだけの人もいない、そう思っています。悪いけれど、悪いことを自覚すればよくなっていけるし、よいと思って安住していることも危険。よいも悪いも同時に存在していることを受け入れて、変わっていくことを恐れない自分でありたいです。
by りんたろ (2005-04-01 20:27) 

arukakat

働きアリじゃないですが、エンドレスだと思いますね。「デスノート(マンガです)」の主人公はかなり危険・・。良いも悪いも環境や個人の判断でいくらでも変わってしまうので、答えが無いんですよね。

>人類は円の面積すら正確にはわからない。
これ、いいですね。もらっちゃいます。
正確、といえば・・・、で小さい頃に疑問だったことがあります。考えるだけで疲れてたことなんですけど。記事にしてトラックバックします。
by arukakat (2005-04-01 20:53) 

黄泉若宮

惡い人を殺す事が、惡い事では無いと誰が決めたのか。
嗚呼、螺旋。
by 黄泉若宮 (2005-04-01 21:13) 

深い。深いです。
だってやっぱり終わりはない。。ですよね。
悪い人を殺した人はいい人。。。?
人を殺したら悪い人。。。?
悪い人のココロにだってなにかがありますよね。
あ〜。なんて書いたらいいのかわからないな。。。
by (2005-04-01 22:09) 

kabo

悪い人って誰が決めるんでしょうね?悪いコトが良いコトになったり、その逆も、歴史的にも変わってしまったり、地域によっても違う価値観だったりしますよね。アメリカのラスベガスにある原爆博物館の取材のニュースで、日本に原爆を落とした行為は英雄的な行為だと考えているアメリカ人が多いと聞いて本当に驚きました。何が悪いコトで、何が良いコトなのか・・・同じ時代に生きていても、こんなに意識が違う人たちがいるって。きっと、本当は誰にもわからないコトなのかもしれませんね。
by kabo (2005-04-01 22:49) 

参明学士/PlaAri

アキオさん、そう思う気持ちに、間違いはないと思っています。「悪さ」を人間そのものに押し付けて、裁きを国家に任せている現状を憂う者です。

kyaoさん、悪者の定義をkyaoさんはしっかりとお持ちなのですね。日ごろ「正しさとは何だ」と思索を重ねています。世界には「正しさの軸」がないのです。だから多様な価値観に振り回されることが、時に戦争として表面化しますね。この分野をリードできるのは恐らく哲学や宗教でしょう。宗教は戦争の原因とも解されやすいですが、真の宗教であるならば人格神ではなく法則性を示すものであってもらいたいです。人間には法則と言う「柱」が必要だと思います。そう、どんな人間でも「食事をする」というくらいの普遍性と絶対性をもった「正義の柱」を…。

りんたろさん、今のところ、私の考えもりんたろさんの仰っていることに近いようです。そもそも人間は善も悪も兼ね備えているように見えます。そのうちの「善」をどうやって引き出し続けていられるか。それが人間にとっての大きな課題なんだな…と感じるのです。

arukakatさん、TBありがとうございます。人間はやはり「考える葦」のようです。思索することで人間は平等になれる気がします。思考の世界で平等になれる。その時に、社会が与えてくる精神的な捕縛を逃れることが出来るのではないかと思っています。

若宮さん、死刑制度にも繋がる重大な問題です。死刑について書くかどうかわかりませんが、今、その問題には高い関心を払わざるを得ません。

suzuさん、終わりはないですね、きっと…。終わらない以上、考え続けなくてはいけないのかもしれません。人間は答えを知りたい生き物ですが、世の中のほとんどのことの答えを知り得ることができません。円の面積など良い例です。心の問題はさらに重篤な難解さを秘めています。思考を続けること。それが今の私の答えになっています。

kaboさん、国や人の価値観の相違は「正義」の問題に対してこれ以上ない強靭さを持って立ちはだかっています。各人の思考を価値付ける考え方を「相対主義」といいますが、相対主義は突き進むと「独善主義」になりかねません。何故なら「客観的なモノの見方」を基本的に認めませんから。
我々は同じ地球に住んでいて、63億人全て違う人間です。もはやこの時点で強烈なアイロニーを持っているのです。違いを持ちながら共存する術を探さねばならないという複雑さ。地球を貫き、宇宙を貫く法則があるのなら、人類はそれを探し当てることが出来るのか、あるいは創ることができるのか。
普段から、そんなことばっか考えてます(涙)
by 参明学士/PlaAri (2005-04-01 23:23) 

くろ

善悪を決めてるのは人間の主観だから、
結局のところ悪人も善人もあってないようなものじゃないでしょうか。
だから善悪の基準は時代や風習で違うし、感じ方も違うんじゃないかな。

僕は善悪を、誰かを裁くことはできそうもないです。
できるのは、誰かを困らせないようにすることと、
そうだなぁ、困らせない程度に自分が「良い」と思えることをすることぐらいかな。
by くろ (2005-04-01 23:37) 

参明学士/PlaAri

くろさん、そうですね、善悪を決めるのが人間の主観なのかどうなのかがポイントなんだと思います。くろさんが仰っているのは、ある種の相対的価値観だと思いますが、それはそれで正しいと思う反面、「人間全部に対して正しいもの」のありかを探すことも大切なのではないだろうか?と考えてしまうのです。
価値観の違いは可能な限りで尊重し、かつ、殺しや盗みを「正しさにしない」人類共通の「柱」も必要なのではないかなというのが、悩みどころです。
アメリカの殺しが正しくて、イラクの殺しが間違いだという世界なら、私はこの世界を去りたくなってきます。
人類に柱を!神様じゃなく、法則を!と心では求めているようです^^。
by 参明学士/PlaAri (2005-04-02 00:10) 

黄泉若宮

「柱 = 神」の脳味噌では一神教的独善が恐い。
by 黄泉若宮 (2005-04-02 00:23) 

明士さん、良い悪い、正しい正しくない(過去記事で)、という判断基準をあえて使っての考察、興味深く読みました。"nice!"先行ですみません。
可知と不可知をどこからどう見るのか、ということもグルグル頭の中を巡っています。
それにしてもこの短い文章に課題をたくさん詰め込まはって、ひとり勝手に泣きそうなスナフです。。。
是非円の面積とか円周率についての記事を明士さん風味でお願いします☆
GIFアニで(鬼笑)
by (2005-04-02 00:34) 

くろ

>人類に柱を!神様じゃなく、法則を!と心では求めているようです^^。

人柱はいやん(^-^;
とりあえず、価値観の相違はお互い認めて折り合いをつけることができれば、
無駄な血は流さずにすむんじゃないかと・・・
あ、それと嫌がらせはなしですね。
逆に喜んじゃう人もタマにいるし(^_^
by くろ (2005-04-02 01:12) 

arukakat

誰かが、人間は常に競い合う生き物だと言ってました。
「ビリの人がいるから、トップの人もいる。」
それを当てはめると、
「(判断基準はともかく)善人がいるから、悪人を悪人と判断できる」
ともいえますね。
悪人が居なくなったら、善人も居なくなる。
ってこか!と思いつつ、「じゃ、なにが残るんだ?」で、また詰まる。
ああ面白い、実に楽しい。
でも私はあくまでも「考えすぎないで楽しむ」ようにします。
ブログでこんなことを書く(これはコメントですが)のは、まさに明士さんの影響ですね。人から影響受けるのはかなり楽しい・・・。
by arukakat (2005-04-02 01:14) 

まさ

子供のころ、父からこんな話を聞いたことがある。
アメリカが宇宙ステーションを開発して、人類からそこへの移住者を選定する時、働き盛りで優秀な人だけを選ぶわけではない。子供、お年寄り、スポーツマン、アーティスト、など、あらゆる分野のあらゆる年齢の人々をバランスよく選定する。
社会は、いろいろな人が居るから上手くいくんだと。

善悪とリンクする話かはわからないが、
全ての可能性は、全体に満遍なく、そして平等に配分される。
確率の論理は人類にわかりやすい理解を提供してくれているような気がする。
by まさ (2005-04-02 04:21) 

アキオ

善と悪、光と影、
表裏一体。

おいらなりに、記事にしますね。
コメントじゃ、収まりきれないですよね。
あ、トラックバックしたら、一番に書きたいことが。。
by アキオ (2005-04-02 09:02) 

参明学士/PlaAri

若宮さん、その通りです。一神教は人格神を柱にするために、非常に排他的になる恐れがありますし、実際そうですから。神じゃなく法則を望みたいのです。

スナさん、最近は更に哲学癖が悪化しており(笑)、科学や歴史の勉強がちと疎かになっております。3者をバランスよく学んでこそ良い知恵と、深みのある人生を歩めるのではないかなぁと考えるのですが、そうそうたやすいものではないようです。仰るように可知・不可知の認識がかなり日本人は弱いです。人間の底は知れないが、思推能力の及ばない事実もあることを自覚しなくては、人類の前進が止まってしまうことも考えられます。果たして2000年前の人類と今の人類は何が違うのか。そんなことも考えずにはいられません。円の面積に限らず、幾何学の第1・2・3公理も「互いに矛盾」し、かつ「正しい」という奇抜さを人類に提示しています。直線一本も正確に引けない人間はこれからどこへ行くのか。そんなことに思いを馳せています。

くろさん、価値観の違いを互いに認めるというのは非常に重要なことですよね。ある程度の分野まで人類は相対的であると思うのです。63億人のうち、ただの一組も同じ人間がいないように、63億パターンの思考をしているはずですから。そして63億人とその他の動物や自然が共有している「ただ一つの地球」を守る規範だけは何か「絶対的な柱」を用意すべきではないかなと感じるのです。それが哲学だったり宗教だったり道徳だったり倫理だったりするような「モノ」なのではないかと思っています。

arukakatさん、確かに人は常に競争に晒されますね。もはや本源的な現実と言って良いと思います。人間は生まれた瞬間に肉体的特長に差異がでますし、門地・家柄・国家・宗教・性別等の「違い」が発生します。もう、いきなり競争なんです。「善人がいるから悪人がいる」というのは、一つの相対的な見方だとは思うのですが、善・悪は「何かと比べて存在するものなのか」という大命題が人類には横たわっています。善はそれ自体「善」としてはいけないのか。つまり善の「絶対化」ですね。善を相対的に定義すると、国家や風習や宗教や道徳や価値観によって「いがみ合う構図」が出来かねません。そうした差異を乗り越えて絶対的な善を打ち立てることに挑戦することで、世界安定・平和というものが図れるのではないかとも思うのです。ある哲学者が人類に必要なのは「人道の競争」というようなことを述べていました。人間は競争する生き物と言う現実に目を背けず、目的に善の価値を付した点で先見性を感じさせます。
あー、すみません。こんな話ばかりでは、また混乱をさせてしまうかもしれませんね…。申し訳ないです。

まささん、>社会はいろいろな人が居るから上手くいくんだ…仰るとおりだと思います。同じ目的に向かう、様々な人たちがいることが理想系でしょうか。平和という目的を考えて、様々な人がいろいろなことを試行錯誤して進む。諦めない人がいる限り、光明は0ではないと確信します。人間みんなにとって納得できる柱=法則をすっきりと説明できる大理論が登場してくることを願って止みません。

アキオさん、TBが出来ましたら拝見しに伺います。こうした記事が何かを考えるきっかけになってくれればこれ以上うれしいことはありません。
by 参明学士/PlaAri (2005-04-02 13:28) 

hi2z-to-39la_vvv

みんなそれぞれが持つ ものさし で善悪が決められているので
悪人を殺して
その言葉自体誰が発するかによって殺す相手もかわりますよね。
と、思ってしまいました。

人を殺す前に、人を愛する心をもとう!、それが平和に近いのでしょうか?
               ↑よく友と話す話題です(笑)
by hi2z-to-39la_vvv (2005-04-02 21:55) 

アキオ

書いちゃいました。
よろしく御願します。。
ちょっと、正義の絶対指針には触れてませんが。。
by アキオ (2005-04-03 11:04) 

参明学士/PlaAri

39laさん、この問題はなかなかに手強い問題です。と、いうよりも一定の答えを人類は出せていない状況ですから尚更です。平和への道は互いの価値観の受容と、見返りを期待しない愛や慈悲の実践、そしてより的確な制度が必要ではないでしょうか。
「価値観の受容」というのは、極めてシビアな問題です。この辺は別記事にしてでも書かないと無理でしょうね、文章量的にも(泣)。
目的の共有と手段の差異。これがとりあえず、人類の悩みでは??

アキオさん、TBありがとうございます。いま、飛んでいったらURLが変わったせいなのか見つかりませんでした…。何か手違いがあったのでしょうか?
by 参明学士/PlaAri (2005-04-03 16:03) 

サファイヤ

うーん、重いテーマです。人間は“性悪説”という話を聞いたことがあります。生まれた時から、何は許されて(良)、何はしてはいけない事(悪)なのか、ということを周りから教えられ、経験しながら、学習し成長していくのだと。ちょっと、この記事のお返事には、なっていないかなぁ?私には、これが精一杯のコメントです(笑)。
いつも、思うのですが、参明学士さんの文章は、とても理路整然されていて、読みやすいですね。文章から知性を感じます。
by サファイヤ (2005-04-03 17:43) 

参明学士/PlaAri

サァファイアさん、コメントありがとうございます!実はこの記事は内容の重さにスルーされまくりかなぁと思っていましたが、こんなにコメントを頂けるなんて嬉しいです。皆様がどのようにお考えになっているかを知れることは、私にとって大きな財産です^^。

性悪説・性善説、唯物論・唯心論等、様々な考え方がありますね。どれが正解と言うことすら学問的にわかっておりません。ただ、経験的に言えそうなのは、人間は時として怒ったり、恨んだり、憎んだり、喜んだり、施したり、励ましたり、祈る気持ちになったりしますよね。と、なれば良い事、悪い事の両方を含有している生き物ではないかなという考えにもなりますね。そうなれば、いかに「悪い心を制御し、良い心を表出させるか」ということに思いを馳せるようにもなるかなと思ったりするのです。

>とても理路整然されていて、読みやすいですね。文章から知性を感じます。

とんでもありません。もったいないお言葉です。何事においても修行中で未熟者の限りですので、不快な言動等がありましたら深くお詫びいたします。
by 参明学士/PlaAri (2005-04-03 18:04) 

サファイヤ

>良い事、悪い事の両方を含有している生き物ではないかなという考えにもなりますね。

そうですね。人間は、この両方持ち合わせているのかもしれません。それをどう制御するか、できるかということが、「精神的成長」であると思います。
不快な事も、お詫びをされる理由も、どこにもありませんよ。ご心配なく。
こちらこそ、いろいろなご意見を拝読できて、楽しいです。
by サファイヤ (2005-04-03 20:29) 

pon

女王蟻や、女王蜂が死ぬと、次が現われるのと、似てるかも・・・
by pon (2005-04-03 23:21) 

参明学士/PlaAri

サァファイアさん、小難しいテーマにお付き合いくださってありがとうございます。学者や研究者でもまだまだ結論の下せない大テーマですから、皆さんと意見交換をしながら真理に近づいていければなぁと考えているところです。ちと、頭痛持ちの男かも(笑)

ラスカルさん、「ない」とは言えませんよね。マクロから見れば人間の細やかな動きも生物的な原理に集約されると考えれるケースもありうると思います。
by 参明学士/PlaAri (2005-04-04 10:57) 

BigLove

記事を書いて、トラックバックしました。
要約すると・・・「悪い人」は存在し得ないです。
「xxを大切にするには」という基準をセットして初めて、良い・悪いは現れるから。
そして、一人の人の中に、良い・悪い、両方の側面が必ず現れるから。
by BigLove (2005-04-04 23:39) 

参明学士/PlaAri

BigLoveさん、TBありがとうございます。後ほど拝見しに伺います。
良い・悪いを仰るように全ての事象に対して「相対化」することは、やがて不干渉主義になってしまうかもしれないなと感じます。私個人としては、例えば人殺しに関する「目的いかんの良い・悪いの成立」は認めることができないと考えています。例えばアメリカがイラクの一般人が入っている病院を誤爆することなど、「目的いかん」で正当化される場合や状況があるとは容認できませんから。
アメリカとイラクの戦争を第3国の日本人が客席から見ているとして、「あれはアメリカはアメリカの正義があるし、イラクも同様だから、どうしようもないんだよ。殺し合いにも善があるし、相対的だから」と解釈することは私には出来ないなと…。
多くの世の出来事の場合は仰るように「相対的」で構わないと思います。それは広義での価値観の許容ということと同義です。しかし、殺しや盗み、讒言、誹謗等に対して「目的や××を大切にするには」という基準セットからの観点での「善」の存在を肯定しうることは、意識として不可だと感じます。
それが故に、どのような人間にとっても等しい価値を認識することが出来る何かの「柱」を人類は考えるべきではないかなと言うのが、今の私の考えです。それに対しての諦めは今のところ持ちたくないということです。
by 参明学士/PlaAri (2005-04-05 00:12) 

BigLove

人の命を尊重する、という目的に照らすと、人殺しは「悪」になります。
そして、人間には他人の命をいとおしく想う働きがそなわっているから、そしてその想いの優先度が大変高いから、ほとんどの場合人殺しは「悪」だとされる。
ところが。人殺しが「悪」とされない場合が、現にある。平然と人殺しをしてしまう状況が。時には、人殺しが奨励されてしまう状況が。
その抑止策として、人殺しを絶対悪と規定し、「悪いから悪いんだ!」と封じ込めることは、私は問題を大きくすると考えています。抑圧は、投射と切捨てを生むから。
むしろ、平然と人殺しをしてしまうとき、いったいどんな心の動きが生じているのか、本来他人の命をいとおしいと想うはずの人間が、それよりも大切にしてしまったことは何なのか、そこを問うことこそが、大切なのだと私は感じています。
by BigLove (2005-04-05 01:15) 

BigLove

人間にとって、根源的に大切なものは、個々人、そうは違わない。おんなじ種族の動物ですから(^^)
一人一人が、自分のこころをきちんと観察し、人生で根源的に大切なものって何なのかをしっかり探求する。
それが「柱」になるのではないでしょうか。
by BigLove (2005-04-05 01:19) 

参明学士/PlaAri

BigLoveさん、重ねて丁寧なコメントを頂きありがとうございます。

>人の命を尊重する、という目的に照らすと~

私が人の命を尊重するのは、「意識として共有可能な目的」とはステージの違う根源的な価値であるという捉え方をしているためです。(ある法哲学者はこれを「メタ価値」と呼んでました。)人の命の価値は、まずそれ自体が維持されないと「人間の全ての欲求の価値を実現できない(目的を達成できない)」からこそ、最重要にして基底に置かれるべき位置づけになるのです。よって「人の命の尊重」は他の価値とは並列に論じることの出来ない位置にあるという認識です。

>人間には他人の命をいとおしく想う働きがそなわっているから、そしてその想いの優先度が大変高いから、ほとんどの場合人殺しは「悪」だとされる。

私は「人間が他人の命をいとおしく思う働きがそなわっているから」殺しが悪だと認識するいう定義をしません。それこそ、「感覚」という曖昧さに結論を委ねざるを得ないケースが出てきてしまいますよね。愛おしく思わない「感覚」に対しては恐らく無力にもなってしまう定見ではないでしょうか。そして、その解決方法を「根源的に大切なものは個々人、そうは違わない」とくくるとすれば、やはり根源的にそう思わない人には無力化されてしまいますし、具体的な対話、制度構築、国際ルール、法理論等に展開するのが難しい気もしてくるのです。
「殺しが悪い」というのは、相対的な価値観による自主性に諮るのではなく、「他者への自由の侵害」であることと、それに連環する形で「自らの自由への侵害」であるからということにならないでしょうか。「殺すのも自由だろ!」という叫びに対して理性的に反論するとすれば「人を殺す自由を容認すれば、あなたを殺す自由をあなた自身が認めてしまうことになる。つまり、生命の損失はあなたの「殺したい」という欲求を満たすことも出来なくなる。」という展開です。私はこうした考え方に拠ったところの上での「生命の尊厳」を規範としての普遍的定義として考えているということになるかと思います。人殺しを「絶対悪」と規定することと「抑圧・切捨て」と言うこととは別問題だと認識しています。「絶対悪」と規定し教育を行うことは、なんら人間にとって違和感のない作業だと思います。その場合、当然「絶対悪」である理由は述べなくてはならないと思います。ですから、上記の説明になるということなのです。この生命の問題だけは「相対的価値観を受容するような教育」にはなじまないと考えます。
今までは通用していたと思っていた「人類共通に感じているはずのもの」が揺らいできているからこそ、大事態なのだと思うのです。これからの時代は「正しさ」をきちんと帰納的に説明する手法も構築していかねばならないと思うのです。そうした人間の努力の集積が「柱」に育っていくのだと思いますし、同時に世界にあるいは宇宙に「法則」という柱があるのであれば、それを早く見出して人類に提示していく活動が要請されてくるのではないかなと思います。

>一人一人が、自分のこころをきちんと観察し、人生で根源的に大切なものって何なのかをしっかり探求する。

これは大賛成です。根源的に大切なものの追求。人類が追い求めてやまないものの一つですよね^^。私はここを「生命の尊厳」というか、「生命そのもの」に見出しているところです。生命そのものの可能性の高さを認識するというか、重要視するというか、言葉では表現しにくいところではありますが、そんなところだと思っていただければ遠からずだと思います。
by 参明学士/PlaAri (2005-04-05 02:45) 

BigLove

参明学士さんの論考自体が、「悪いから悪いのっ!!!」で無理やり封じ込めないための、より根源的な大切さの探求ですね。
そして、”人の命の価値は、まずそれ自体が維持されないと「人間の全ての欲求の価値を実現できない(目的を達成できない)」からこそ、最重要”という論考は、多くの人の共感を呼ぶからこそ、力を発する。

善悪は、なにを大切にするかで変わる。
・・・これは老子が語るように善悪の特性なのでしょう。
しかも、なにがより大切かは、人によって異なる。
でも、根源的に大切なものに近づくほど、「おぉ!それは俺にも大切だ」って感覚は、どんどん共有可能になっていくみたい。

相対性で成立しているこの宇宙。だからこそ、より大切なものを、どこまでも、いろんな形で探求・表現できるのかもしれません。生命の尊さと可能性の高さを、そんなふうに語ることができるのかもしれませんね。
by BigLove (2005-04-05 11:09) 

BigLove

ルールと罰で抑止することには、即効性は在るかもしれないけれど、限界も多いと感じます。
なぜそう感じるのか、なぜそうしてしまったのか、なぜ、なぜ、なぜ・・・・・
そして、なにをより大切なものとして感じるのか。どう生きたいのか、どんな素敵さを創造したいのか。ここを問い続け、触れ続け、表現し続けることが、シンプルで、かつ、最終的な解決策のような気がしています。
by BigLove (2005-04-05 12:12) 

参明学士/PlaAri

BigLoveさん、幾度にも亘る丁重なコメントに感謝いたします。

>根源的に大切なものに近づくほど、「おぉ!それは俺にも大切だ」って感覚は、どんどん共有可能になっていくみたい。

そうですね。恐らくそういうことになるかと思われます。そしてこの感覚の共有こそ、閉塞した社会を打破し行く思想・思考・哲学としての力になっていけるものではないかなと感じます。そしてその共有物の候補として最上位にあるのは「生命の尊厳」ということになるのではないかと思っています。ですから、「生命の尊厳」を脅かすものは「悪」という認識に立たざるを得なくなってきます。これは「悪があるから善がある」といった形の相対性に頼らない認識の方向を示しているのです。

>相対性で成立しているこの宇宙。だからこそ、より大切なものを、どこまでも、いろんな形で探求・表現できるのかもしれません。

認識や感覚といったものは相対性をもつと思いますし、事実そうですよね。この相対性を認めないと後に残るのは戦争・殺し合いです。
またそれとは別に、どんなに人間がその思考によって「地球は回転していない」と主張しても、地球の自転が事実であることは受け止めざるを得ません。そこには相対性の付け入る余地はないものだと考えられます。地球の自転は「我々の意思とは無関係」な事実です。ガリレオの「それでも地球は回っている」との言葉は相対性の立ち入れない神秘性を感じさせるものです。パルメニデスも「あるものはあり、ないものはない」と述べていましたね。人間の認識は相対的であるわけですが、様々な事象の作用が常に相対的であるという考え方を許容するのは難しいというか、不可能でありましょう。
我々が普段生活していて感じ取れない事象である「地球の自転」のように、我々が認識できない、それこそ地球の自転のような「正義や善のような法則」があるのだとしたら、それを見出して、具現化していく行動こそが必要とされるのではないかなと考えているわけです。そういうのを便宜的に「柱」と呼ぼうと…。

>ルールと罰で抑止することには、即効性は在るかもしれないけれど、限界も多いと感じます。

やはり、これは望ましい形ではありませんよね。大体にして罰や刑に処される根拠もよく示されないままでは不満がくすぶっていくのも当然です。死刑の問題にも絡んできますが、それはここでは置いておきます。(著しく長文になる恐れを感じますので^^)
基本的には道徳や哲学や良心といったものが緩やかに社会を貫いている形が良いのでしょうね。現代ではそれが期待できないところが大いなる悩みどころというところではないでしょうか。
by 参明学士/PlaAri (2005-04-05 13:23) 

アキオ

トラックバック??
おっかしいなぁ、、いじった記憶は無いんですが。。。
とにもかくにも、打ち直しておきました。

いろいろと不思議なことが起るソネブロですね。。

は、ともかく、この件に関しての、オイラのキーワードは「良心」
これですよね、、、しつこいと思われるかもしれないのですが。。

続き待ってますね。。
by アキオ (2005-04-06 10:48) 

参明学士/PlaAri

TB何か不具合がありましたか?私の見る限り、以前のTBも問題ないようですけれど…。

これに関する記事UPはもう少しお時間を下さい。今、構想を練っています。「良心」を導き出すもののありかにも言及できればと考えています。
by 参明学士/PlaAri (2005-04-06 12:37) 

参明学士/PlaAri

アキオさん、TB不具合でしたね(汗)。確認したらアキオさんのところに飛べなくてびっくりしました…。再度のTBありがとうございますm(__)m
by 参明学士/PlaAri (2005-04-06 15:36) 

ちょっと違うたたずまいですが、TBしてみます。
by (2005-04-06 20:00) 

参明学士/PlaAri

スナさん、TBありがとうございます!今からお伺いしますね~。
by 参明学士/PlaAri (2005-04-07 21:10) 

BigLove

地動説の話し、「正しさ」とはなにかを説明するのに、実はしばしば使います。
今日出席した入学式で感じたことなど含めて、つらつらと記事にしてみました。
その対象が「善」なのか、「正しい」のかではなく、
「なぜ」、「自分」はそれを「善」と感じ、「正しい」と感じるのか、
どういう評価軸で、どういう目的に照らして、なにを大切にしようとしているのか。そこを語り合うことに意義がある・・・という要旨です。
今、スナフさんの記事を読みました。内容がシンクロしてますね!
そして、参明学士さんとも。「善悪が相対的だから」というところに理由を求めるか否かの違いはあれど(^^)
by BigLove (2005-04-08 01:11) 

参明学士/PlaAri

BigLoveさん、いつもありがとうございます(^_-)

>「なぜ」、「自分」はそれを「善」と感じ、「正しい」と感じるのか

やはり、大切なのはこれですよね。そして各人の判断に任せきらないことも、難しい選択ですね。私は評価軸に揺さぶられない「現実・正しさ」の追求をしながら生きていくんだろうなぁと考えています。評価軸の変遷で価値が変わるとしたら、人間の指標にはなりにくいでしょうから…。
スナさんは、私の良き友人です。すっかりblog上で親しくさせて頂く様になりました。こういったオンラインでのプラスの要素を感じたりする毎日です。共に考えていければなぁと思っています。もちろん、BigLoveさんとの出会いも私にとっては代えがたいものです。今後とも是非、よろしくお願いいたします^^。
by 参明学士/PlaAri (2005-04-08 11:26) 

コメントを書く

お名前:[必須]
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

トラックバック 8

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。