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ネット上での匿実名論争を考えてみる…後編 [思索の散歩道]

 前編中編と書いてきた本シリーズもこのエントリーで最後になります。読み易さも考慮して、中遍にも小見出しを付けてみました。

 さて、一般に匿実名論争が起きるのは、ネット上での発言に規律や責任を与えることを目的としたものだと思われます。規律や責任の所在が明確になることでネットのメディアとしての信頼度を確立することができるという主張があるようです。

 私は思い浮かべます。ネットに限らずテレビや書物等に実名で登場して論評・意見表明をしている人達に幾らでも虚偽があることを。真逆の主張・事実関係をぶつけ合う政治家や評論家や企業家や学者や一般人がいることを。
 果たして「実名」が情報に規律や責任や真実性を与えますか。与えてきましたか。私にはとてもそうは思えない。この問題は「情報の本質をどのように捉えるか」ということの方が、より重要ではないかと私は考えます。


・情報は不完全!?

 
 ネット上の情報が主に言語(文字)で構成される以上、言語機能の限界を知っておくことが情報の本質を考える上で大切なことになるでしょう。言語で表されるモノやコトの特徴の一つとして、「捨象」という現象が挙げられます。例えば、次の状態を表現するとします。少しまどろっこしい言い方になりますが、我慢して読み進めてください。


 「今日の天気は晴れ。現在の気温は23度で暖かく、微風が吹いていて爽やかである。」


 これは抽象的現象を表現した文字情報ですね。文字列を読めば何となく「暖かい」感じは伝わってきます。文字を読みながら状況を想像することも可能でしょう。しかし、実際にこの状況に触れる以上の情報は得ようがありません。文字で読むよりも外に出て天気を体験する事の方が圧倒的に情報量が多いのです。裏返せば、文字情報は実際の情報よりも「捨象された表現で書かれている」と言えるわけです。限定的表現の形態を取っていると考えてもよいでしょう。
 では、これが動画ならどうですか。文字情報+動画という形はTVやネットでもよくある形式ですが、それでもやはり情報量は削がれてしまいますね。動画でも「暖かさ」それ自体は伝わりませんし、昨日の気温との差異に基づく感じ方、空気の爽やかさ、場の雰囲気と言った主体に起因する情報を動画や字列が余すことなく表現することは不可能と言ってもいい。
 このことはアーティストのライブと、ライブ映像(放送、DVD、ブルーレイetc)との差異にも共通する感覚と言えば、より分かりやすいでしょうか。実際にライブに参加しているのと、同じ場で撮影された映像ソフトを観るのとでは、その情報量に圧倒的な違いがあることを我々は経験的に知っていますよね。ソフトの音質を上げたり、音場をライブ会場に近似するように設定したり、3D映像の作出や画質の洗練化を図る技術革新は、現実世界の情報量に近づけるための作業工程に他なりません。繰り返すようですが、これが現実を捨象せざるを得ない情報の本質というものです。情報というものは表現しようとした瞬間に「質的変化を余儀なくされる」という宿命を背負っているわけです。
 一方で、元々の情報が文字情報の場合は伝達は容易です。そのまま伝えれば完全な形で伝達されますね。例としては試合のスコアやレースの着順などが挙げられます。これなどは意図的な改変が行われない限りは情報の捨象が起こり得ない類のものでしょう。このような情報に対しては懐疑的に接する必要はありません。 
 ともあれ、抽象的情報の精度は人間が用いる情報伝達手段の構造上、一定の質的限界を内包するというジレンマがあると考えて差し支えない。情報は他者に何かを伝えたいのに、その「部分しか伝達し得ない」のです。情報は常に断片化し、それによって不完全にしか成立しないと考えられます。以上を踏まえて、情報の受け手である我々に必要なことは何でしょうか。


・情報不完全性を受容する生き方


 「情報は断片化している」というのが世界の当面の真実なら、その受け手である我々に必要な態度は一様に定まってくるように思います。それは「情報には不完全性が伴うことを自覚する」ということです。情報に軽々しく信を与えず、軽率な判断を下さない。ネット時代を生きる我々にとって重要なスタンスであるように思います。ネット上の匿実名論争は実名明記によって情報への責任や自主的規律を期待するものでしょうけれど、情報は「受け手がどう捉えるか」という観点から見るべき性質のものでもあると私は考えます。
 「オオカミ少年」というイソップ童話がありますよね。少年が発する言葉(情報)はいつも同じで変わっていない。けれども繰り返される間に「聞き手(村人)の判断が変わった」のですね。いつの世にも「オオカミ少年」のような人間はいる。童話とは言え、オオカミ少年は村人からはきちんと実名で認識されていたはずですが、それでも嘘を叫んでいたと考えられます。オオカミ少年のような愉快犯に規律を与えるのは実名明記などではありません。彼に規律を求めるだけでは情報の質的向上は容易ではないでしょう。
 そもそも情報は発信者と受信者がいて成立するものです。発信者だけが情報の質を決めるものと私は考えません。受信者が情報をどのように捌く(さばく)のかで、情報の真の意味が決まるのです。『バカの壁』を書いた解剖学者・養老孟司さんは「情報は変わらない。変わるのは人である」と述べました。この言葉を借りながら、私はもう一歩踏み込んで「情報は変わらない、変わるべきは人である」と捉えたい。情報社会とも形容される現代を生き抜いていくには、少なくとも情報には捨象が伴うことを理解しつつ、情報の受け手である我々がそれを鵜呑みにする態度を変えていくことが大切ではないでしょうか。


・五感を駆使しない情報を過度に信頼しない


 古典的な表現ですが、人間は五感(視覚・触覚・嗅覚・味覚・聴覚)を駆使する生き物として知られていますね。あるいは第六感のような科学的分析にかからない感覚が存在することを主張する人もいます。その他、もっと多様な感覚を人間は備えているという学説もありますが、その是非は別として、人間生活を営む上で情報との付き合い方を考えてみると文字情報をありのままに受け取っているのでは視覚を用いてるだけの状態ですね。人間の五感のうち一感しか使っていないわけです。これでは情報の全体を知るには程遠い。
 美味しいラーメン屋の情報を写真でみたり、文章を読むだけでは、やはり足りない。味覚、嗅覚、触覚を駆使してラーメンの全体像が分かるというものでしょう。その意味ではネットやTVの情報というのは「体験に基づかない判断」になりがちで、そのような捨象された情報を鵜呑みすることによって事の真実から遠ざかってしまうようなことがよく起きているのです。「不味いと書かれていたが、実際に食べたら美味いじゃないか」などという話はよく聞く話です。あらゆる論評も情報の一種ですが、人物・学説・政治政党・組織・哲学・思想宗教・商品等に関するそれなどは、噴飯モノの類も少なくありません。酷いものはイメージだけで情報を振り出す場合がある。一感も使わない乱暴な手法です。ともあれ、五感を駆使しない情報には捨象が強く働いていると認識することが、恣意的な情報操作に振り回されない堅実な知性ではないでしょうか。2ch(2ちゃんねる)はネット上の情報に関する争いの舞台となっているようですが、あのような場でこそ情報の受け手側のスタンスが試されるのです。
 昔の人は実に良いことを言います。「百聞は一見に如かず」と。百聞はネット上の情報、一見は五感(体験)とも言えるでしょう。今日のような時代にこそ大切な知見ではないでしょうか。情報はそもそも捨象を伴うという現実を内包している。であれば、発せられた情報を追試する姿勢-すなわち五感を使って体験するというスタンス-を持つことが情報精度を高めるための一つの処方箋ともなるのではないかと私は考えているのです。


・ネット上での匿実名論争を超えて


 以上、長々と綴ってきましたがようやく本稿も終点です。こうした考察に何らかの意味があるのか自ら懐疑的になりそうですが(笑)、ともかく最後に論点整理を箇条的に行っておきたいと思います。


・ネット上の人格が匿名か、実名かということはそれほど重要事ではない。実名を標榜してもそれを追試する一般的手法がない(著しく困難を伴う)。

・名は実名であれ匿名であれ便宜的に付与される可変性の存在である。可変性を帯びる名に責任を求めることがどこまで可能か不明である。

・ハンドルネーム(H.N)を用いて自己の足場を築くことでユーザーの新たな自己顕現が期待されるのと同時に、それは複数人格が許容されるネット社会が内包する多様性のシステムと共鳴し合うものである。実名参加に限定することがネットの多様性とトレードオフになることを認めることはできない。

・文字情報は対象物から何らかの捨象を伴って表現される。そのため完全な情報というものは存在しない。

・情報との付き合い方として、「情報が不完全であることを踏まえて」認識する必要がある。

・情報は発信者側のみならず、受信者側の受容態度によってその価値が定まる。 

・情報は人間の五感を駆使(体験)したものを土台とするべきである。


 今回、ネット上での匿実名論争をテーマとして考えをまとめましたが、頭の中にあることを文章にすると言うのはやはり簡単なことではありません。恐らく人間は思考していることのうち、ほんの少ししか表現することはできないのでしょう。その意味で言葉や文字は「便利なツールだが、不便なものだ」とも言えそうです。『イノセンス』という映画がありましたね。脳内イメージを容易く交換処理出来る世界が描かれていたように記憶しています。あれができたらどれほどラクだろうと想像しながら、この文章を書いています。
 ともあれ、ネット上での匿実名論争とは着地点がいささか違うところになってしまったような気もしますが、本稿を読んだ方が情報の本質の一端についてでも興味を持たれることがあれば、本テーマを取り上げた意味もあったものと信じたいと思います。


※トラックバック送信用言及URL
http://akionos30z.blog.so-net.ne.jp/2010-05-22
http://kyao.exblog.jp/11165398/


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アキオ

情報は不完全、、というのも違う気もするんですよね。
なんちゅうか、自己都合にあわせたチョイスな感じというか。。

ながくなったのでコメントはトラックバッックで。。
by アキオ (2010-05-22 16:21) 

ありしあ

全員が実名で名乗ってたら、ネットって今ほど広がってたかどうかと思うんですが。
少なくとも私は実名を名乗るのはリスクのほうが多そうなので名乗る気はありません。

ネットにしてもTVにしても、その内容が自分にとって真実かどうかはそれぞれが判断すればいい事だと思いますし。


by ありしあ (2010-05-22 16:53) 

kyao

うーん…持論をここで展開するのも場違いな気がするので、ベースな部分だけ。(^^ゞ

変な例えですが。
アメリカやイギリスでは、実名が分からない人たちを、仮に「チャーリー」とか「ジャック」とか呼ぶそうです。有名な殺人鬼「切り裂きジャック」も、犯人の名前が「ジャック」だからそう呼ばれるわけではないんですね。(^^)
でも、ここで「切り裂きジャック」ではなく、「東京の山田太郎」だったらどうでしょうね(なんちゅう名前だ)。(^^;
「切り裂きジャック」だった場合、その存在すら曖昧模糊としている感じがします。得体が知れない怖さがあります。ですがその名前が「山田太郎」であれば、それは「山田太郎」と言う名前を持った実在であると認識出来ます。先のような曖昧模糊とした恐怖はそこにはありません。
実名を使うと言うことは、すなわち、そこにある種の責任が生じるのと同時に、リアルな存在であると知らしめることに意味があると思います。(^^)
ただ、ネット上では「その名前が本当に実名かどうか」を確かめるだけの手段がないため、どこまでいっても「実名らしい」ということしか分からないのではないでしょうか。

「情報」についても同様ですよね。
文字で知ろうが、動画であろうが写真であろうが、そこに示されているのは情報すべてではなく、ある種、スペック化されたものであるとしか言えません。別の言い方をするなら、それを受け取った側の人間は、そこに示された範囲の情報しか知りえないわけです。
例えば、曇り空の写真を見せられれば「少ししたら、雨が降ってくるかも知れない」と思うでしょうが、実際には写真と反対の方角には青空が広がっているかも知れない。しかし、写真だけを見ている人にはそれを知る術がないのです。
私自身、少し前までは就職活動でひどく難儀していましたが、「履歴書を先に送付してください」という会社には興味はありませんでした。
履歴書はその人の一部をスペック化したものであってすべてではありません。私は私という個人を評価して欲しかったから。

明士さんは、ここ数回にわたるスレッドで、実名と匿名について論じて来られました。
私にとってこの問題は、ネット上での「虚像と実像」ということに置き換わっていました。
私もいつかどこかで同様のお話をさせていただきたく思いますが…結局、ネット上で語られるすべてのことは、どこまでいっても輪郭線さえ不確かなものとしか言いようがないことのように思えます。
by kyao (2010-05-23 09:14) 

銀鏡反応

新聞、TV、ラジオ、インターネット・・・各種のメディアを通じて我々に届く「情報」というのは、言われるようにその主体を完全に伝えきれるものでなく、一面しか伝えられないように思えますね。つまり主体の全てを完全に語れず不完全なものになる。情報とはしょせんそういうものです。その中で、情報の取材者と伝達者たちは、、如何にしてその主体の「真実」「実像」を伝えるかに心血を注ぐものだと思うのです(もっとも、最近は対象物に取材もせずに、虚偽を垂れ流すメディアもあるようですが)。

仮令その主体の情報にキャパシティの制限があって、その主体の一部しか伝えられなかったとしても、その対象が秘めた「真実」「実像」を仮令一部分でも伝えるのが、情報伝達者の貫くべき大きな使命の一つだと思うのです。

それにつけてもネットの「匿名」「実名」論争なるものは、私にとっては今や「砂上の楼閣」での不毛なシロモノにすぎない。実名であっても虚偽しか語らないものもいるし、匿名であっても、ものの真実を語ろうと努力するものも居るわけです。

それよりもネットを通して流れるさまざまな情報の裏に潜む、人間精神の傾向性の現在について、もっと真剣に語られなくては成らないと、私個人としては思うのですが。

我々の生きている空間を、さまざまなメディアを通じて伝わるさまざまな言葉、映像、音声などの姿を借りた情報のその裏に、今の時代を生きる人間精神の今、そしてこれからの動向について、人類はいま真剣に問題提起しなくてはならないときを向かえたのではないでしょうか。
by 銀鏡反応 (2010-05-23 10:58) 

kyao

事後承諾となってしまい、恐縮なのですが、私のブログにTBさせていただきました。m(__)m
無事にTB通知が届いているようなら、どうぞよろしくお願いします。m(__)m
by kyao (2010-05-23 15:19) 

参明学士

★アキオさん…トラックバックありがとうございます。この後、コメントを書きに伺います。こちらからもトラックバック飛ばしますね。

★ありしあさん…仰る通りで、ネット上の情報をどのように判断するかという「受け手の姿勢」が問われると思います。発信者が実名か否かは情報それ自体に特別な価値を与えるものではありませんよね。
実名による効果を敢えて考えるならば、「実名を出しているのだから、信ぴょう性があるのかも?」と受け手が感じるかもしれないというレベルの話ではないでしょうか。

★kyaoさん…トラックバックして頂きありがとうございます。どうやら私のこの記事のURLがkyaoさんの元記事に含まれていないとトラックバックが飛ばない仕様になっているようです。お手数ですが、本稿のURLを本文に書き加えた上で再度トラックバックして頂けますでしょうか。複数の読み手にとって意義ある記事を書かれていると思うので、是非ともトラックバックを飛ばしてもらいたいと思います。こちらからもトラックバックさせて頂きます。よろしくお願い致します。

さて、本題ですが。

仰るように実名のくだりに関して、私も本文にも書きましたが同様の見解を持っています。いかに「本名だ!」と主張したとしても、情報の受け手がそれを客観的に検証する術がありませんよね。ですから、匿実名論議は本質的に言ってそれほど意味のあるものではないと思うわけです。

情報の捉え方もkyaoさんと同じように考えますね。写真が実態の情報を切り取ってきた一部を表すのみと示された例はとても分かりやすいお話ですね。頷きながら拝見しました。

>履歴書

なるほど。確かに仰る通りですね。文字情報のみで表現された履歴書に人間全体を表す力はありません。私も人事採用に関わることがありますが、「履歴書送れ」というやり方を採ったことはないですね。やはり直接あった上で判断しています。本稿での「五感を駆使する情報の獲得」がこれに該当するでしょうか。

kyaoさんがお持ちのような情報に対する認識(姿勢)が社会に一般的なものであれば、こんなにネット上の情報に対して過敏にならなくてもよいはずなんですよね。情報は不完全性を備える存在であることを認識すべきだと本稿でも示してみましたが、流行や気分に傾きやすい国民性によってこうした声もかき消されてしまうような気がしないでもありません。

★銀鏡反応さん…情報精度の限界を見つめつつ、その上で事実・真実を追求する姿勢こそ大切であるというご意見、私も大きく首肯するところです。そうでなければ、マスメディアの仕事なんか「無い」に等しいですものね。できれば、それがどのような手段によって為し得るか、近づけるか、お考えをお聞かせ頂けると嬉しいです。

>まざまな情報の裏に潜む、人間精神の傾向性の現在について

人間精神の傾向性を判断すること。大変な課題ですね。
確かにネット上に立ち現れる表現を俯瞰して何らかの傾向性を判断するという作業も不可能ではないかもしれませんが、その分析は相当な難易度を持つような気もしますね。妥当性を取り決めるのが難しいと言えば良いでしょうか。
ともあれ、私はネット上の情報はそれ自体、「複雑系のルール」を見るようなイメージが湧いてきます。
不完全性を内包する言語情報が瞬間瞬間に飛び交っているネット世界。情報端末の向こうに必ずいる「人間」の精神をどのように見つめていくか。今のところ人間に為す術はないような感覚に襲われます。

>人類はいま真剣に問題提起しなくてはならない

ありとあらゆる分野で問題が発生している現代。それを引き起こしてきたのも人間であるならば、問題に対する処方箋を書くのもまた人間であると信じたいですよね。手前味噌な楽観論を吐くわけではありませんが、私は人間自身が人間を善的な存在へ精神的に進化させる世界を期待したいのです。
by 参明学士 (2010-05-25 23:22) 

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