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ケータイは本当に人と人を近づけたのか?(2) [思索の散歩道]

前回に引き続き、携帯電話のお話を。

携帯電話の登場により、社会生活における利便性は極めて高まったと考えられる。それについては前回も論じた。今回の主旨は「利便性の影に隠れた携帯電話が持つ負の可能性」について考えてみたい。

携帯電話の代表的な特徴として挙げられるのが、「電話番号通知機能」である。電話帳機能と連携して事実上、「誰からの連絡か」ということが予めわかる一見非常に便利な機能だ。

が、しかし…。

予め電話相手が誰かということが分かるということは、「都合によって電話を取ることを拒否」する・されるということもできることになる。もっとつっこんで言えば、「無言の意思表示」ともとれなくもないわけだ。

実はこの「拒否」あるいは「保留」ということが、人間同士の奥ゆかしいところでの信頼関係に微妙な影響を与えるとも考えられる。例えば親族。親と子。「親からの電話などうざくて取れない」という人の話はよく耳にする。親としては逆に心配であろう。「自分からの電話だとわかっているはずなのに、何故とらないんだろう?忙しいのかな?もしや事故?いや、自分が避けられている?」と考えることくらいは容易に想像が付くものだ。もちろん、それが重なってくれば疑念も怒りもこみ上げるだろうし、信頼関係に何らかの「ねじれ」が生じなくもないだろう。「無機質な電話番号の通知」という事実には、実は非常に人間的な「思慮」のやり取りが加味されているのだ。携帯電話を使っている我々はそこは意識しておいた方が良い。友達同士でも、恋人同士もそうであろう。「あの人の電話は取るのに、自分がかけると出ない」ということになったりすると、その人間同士の信頼関係はゆゆしき問題に直面することとなろう。

会社ともなればまたその「役割」は微妙に異なってくる。仕事上の電話であれば「気付かなかった」では済まされない。携帯電話を持っていることによって、「無縄の縛り」をかけられていることを自覚しなくてはならないのだ。会社側にとっては便利になったのであろうが、社員にとっては少々身動きがしづらいツールなのかもしれない。そのうち携帯電話全般にGPS機能などが搭載され、まるでタクシー会社のように居場所が常に会社に知られてしまうともなれば相当に息が詰まるだろう。人間は監視下に置かれ続けることは精神衛生上良いことではない。

そうなってくると人間生活の利便性を向上させる主旨であった携帯電話が、その人にとって「頭痛の種」に化けかねないツールにもなりえるのだ。いたずら電話やいやがらせメールが多くて番号変更やメルアド変更する人を見かける。便利なのに「番号やアドレスを変えなくてはいけない」とは何やら本末が転倒してはいやしないだろうか。

それから、「口頭で言いにくいことをメールで済ます」というスタンスを取る人も見受けられる。メールというツールは基本的に「一方的なもの」である。自分の主張をしてとりあえずは終わらなくてはいけない。チャットとはそこが違う部分でもある。相手との意見のキャッチボールが終わるまでの間に「既成事実」を作ってしまう可能性がある。だが、これはやはり人間関係を維持するためには少々危険であることを知らねばならない。

例えば待ち合わせに遅れるとか、中止にするといったことを「メール」で伝えただけで終わるのはよろしくないと思われる。相手に対して誠意がないとも言えるし、何より相手の同意を得ていない。下手をすると相手にメールが届いていないとも限らない。最悪の場合、「ただすっぽかしただけ」と判断される危険もあろう。

つまるところ利便性の高い携帯電話を使う段にあっても、やはり重要なのは携帯電話を握り締めている「人間のあり方」なのだ。携帯電話は多様なコミュニケートの手段を提供したのであって、それ自体が人間と人間の距離を近づけたわけではあるまい。むしろそのような錯覚は人間同士の連帯感に傷を入れることになりかねない。

最高のコミュニケートの拒否が突然かつ無通知の「電話番号変更」であるとも言えよう。連絡のない電話番号変更は「自分に対しての友情・信頼関係の欠如」とも受け取れるだろうし、そう判断されてもやむを得ない部分もある。本人がそう思うとか思わないとかの次元を超えて、そういう危険がある。

「便利なものは使い方を誤ると取り返しのつかない事態になることがある。」

何も携帯電話に限った話ではないが、私はそう思うことがある。文字のやりとりや言葉のやりとりで誤解が生じた場合などは、なるべく時間を空けずに対処するのが良いと思われる。自らが悪ければ率直に詫びて自己の改善を図り、誤解があれば解く努力をする。そうした「人間的な」スタンスが大切ではないだろうか。決して機械やシステムが人間を近づけたのではない。それはやはり手段である。人間自体がどのように主体的に関わっていくかと言うことが何よりも重要であろう。

 

その3に続く。


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コメント 2

steel

携帯電話は人間を近付け過ぎちゃったのではないでしょうか?
本来、近付かないところで、調度いい加減な人間関係が築けて
いたところに、いきなり土足で踏みにじる行為をし始めちゃったのが、
携帯電話なのではないかという気がします。
独りになりたいなーと、人知れぬところで煙草を吸っていても、
携帯電話を持っていると、独りになった気分にはなれません。
他人との距離感がおかしくなってますね。
by steel (2006-05-30 12:41) 

参明学士/PlaAri

★ironさん、携帯は近づいたが故に離れてしまったということも考えられますね。利便性の代償は人間関係であるとも言えなくはないかなとも。
人間性の奥ゆかしい所にまで踏み込んでしまう恐さを感じなくもないですよね。
by 参明学士/PlaAri (2006-05-31 11:37) 

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