あしあと [思索の散歩道]
あしあとのつかない道を歩いてる。
進んだ証なんてどこにもないんだ。
でも、また一歩踏み出そうとしてる。
前を行く人のあしあとを見てみた。
その人もあしあとはついていなかった。
だけど、あしおとだけはしっかり聴こえたんだ。
歩いている。そして生きている。
私はそれでいいんだと顔を上げた。
推薦本TB企画 [思索の散歩道]
とても一人では楽しい本を探せませんので、皆さんと共に探っていけたら最高です。
原因と結果の法則2 [思索の散歩道]
じっとしてはいられない。 [思索の散歩道]
とある本を読み終えた。『「おろかもの」の正義論』という書だ。法哲学者である小林和之氏が著している。唸った。思わず唸ったのだ。
日本とは何か。 [思索の散歩道]
この地球上に「日本」が誕生したのは一体いつのことであろうか。その日本が誕生する以前は「日本人」はいなかったと言えるのだが、それでは話にもならないので「日本人」の源流について考察していきたい。
「毛」から考える進化論 [思索の散歩道]
私は男性である。ヒゲが生えるわけだ。そこでふと考えた。
第2回 『高杉晋作』 [思索の散歩道]
高杉晋作(1839~67)
激動の幕末を光のように駆け抜けた男である。いや、稲妻のようにと言った方が適切だろうか。吉田松陰の主宰する松下村塾出身である。もはや彼についての言動や行動についてはほぼ調べつくされていると言ってよい。幕末史を好む方は山口県まで行ってその事跡を偲ぶことも多いという。あまりの活躍度合いと、あまりの早世度合いが英雄度を否応無しに高めていると考えられる。目的への直球ストレート、変化球なしの行動スタイルは、周りの目を見て第一歩を踏む大勢の日本人とは明らかに一線を隔している。ここでは彼個人の行動というよりは、長州が何故維新回天の力になったのかを考えておきたい。
第1回 『織田信長』 [思索の散歩道]
※新しいカテゴリー「明士の歴史人物評」をつくりました。教科書のように時系列に事実を追うのではなく、あくまで「歴史」という流れの中で人間のようなミクロの存在が示した社会に対する影響力、それを一連の法則のようなものとして認識できるように記述していきたいと考えています。これはもちろん私の持っている「主観」であることを否定するものではありません。哲学っぽい考えが混じるのは避けられないと思います。そしてなるべく簡潔に示していくことが目標です。それでは、第1回目の人物は「織田信長」です。
中国の古い教え [思索の散歩道]
五才とは 智・仁・義・勇・忠(将に必要な五つの才能)
- 「智」とは乱れぬこと
- 「仁」とはよく人を愛すること
- 「義」とは期待を裏切らぬこと
- 「勇」とは罪を犯さぬこと
- 「忠」とは二心を持たぬこと
十過(将にあってはならない十の過ち)
- 勇があって死を軽んじる者
- 急いで心落ち着かぬ者
- 利を求めてむさぼる者
- 仁あって人を殺せぬ者
- 智あって恐れを知らぬ者
- 信あって誰も信じてしまう者
- 清廉にして人を許せぬ者
- 計あって油断する者
- 意思強きゆえに何事も自分でことをなす者
- 怠け者であるゆえに人に任す者
最初の5才というのは儒教の「仁・義・礼・知・信」とは違います。5つで区切られているあたりは中国っぽい発想とも言えそうですが。4番目の「勇とは~」が好きです。十過は一つでもあると将としてダメだそうです。厳しいですね。心が清いだけでもダメ、慈悲深いだけでもダメ、人が良いだけじゃダメ、自分で全部やってもダメ、人に任せてもダメ、何とも絶妙なバランス感覚を必要としますね。
はぁ、厳しい修行は続く…。
戦国無双(PlayStation2) [思索の散歩道]
戦国時代を舞台としたアクションゲームが「信長の野望」シリーズで有名なコーエー(光栄)から発売されている。私も買って遊んでみた。すでに同社から「真・三国無双」シリーズが出ているのでそちらをご存知の方はその「日本・戦国時代版」と思ってもらえれば想像がつくと思う。
設定が凄まじい!!
最初は上杉謙信でシナリオをクリアした。そうすると「伊達政宗」が使用可能になる。それで政宗でシナリオに臨むとその舞台はいきなり川中島!!しかも、信玄と謙信がやりあっている中を割って入るという凄まじさ!その冒頭など脱帽である。政宗の家臣が「信玄・謙信のどちらをやりますか?」と言ったと思えば、政宗は「馬鹿め!そのどちらもよ!!」と叫ぶのである…。本気の苦笑いが出た。何せ信玄が死んだ年に政宗はまだ3歳位であろう。その両者が同じ戦場に立つ…。ゲームとしては面白いが設定はフィクション極まりない(笑)この川中島も伊達政宗が武田信玄・上杉謙信を「蹴散らして」クリアとなる。凄まじいという以外に使う言葉が見当たらない。大体、政宗が15歳の時に織田信長が本能寺にて非業の死を遂げるのである(1582年)。それ位政宗は戦国大名としては後発だったわけなのだが、ゲーム上の設定では上記のようになっている。
子供達がこのゲームを遊び戦国時代を覚えることに危機感を覚える
実は私がこうしてこのゲームについて書こうと思ったのには訳がある。それはまだ私が子供の時分(小学校低学年)、随分と「信長の野望」というパソコンゲームで戦国を覚えたことが鮮明だからである。今でもその恩恵を享受していると思うくらいである。あのゲームでは年代やシナリオの発生時期が史実と連動しているので、随分と勉強になったものだ。武将の名前や、その家族、家臣、城名、茶器、文化など意外と勉強しないで勉強してしまっていたというのが事実であろう。丁度、「ダービースタリオン」をやって競馬を覚えるのと似ているのかもしれない。それまでは伝記中心だった私の読書も、そうやって戦国をはじめとする歴史に興味を持ち始めて本をあさるようになり、本気で歴史好きになったものだ。それを考えるとこのゲームを今の子がやっちゃうと「政宗は信玄と戦った」とか「謙信を蹴散らした」という恐ろしい(?)認識が彼らの中で一般化してしまうのではないかと思わず危惧してしまったのである。まぁ、登場人物と設定だけが「戦国」なんだと認識すればそれだけの問題でもあるのだが、子供にはそうはいかない。学校の先生に聞きはしないだろうか?「信玄は政宗より弱かったんですよね?」と。それが恐ろしい…。
続いて次のステージがまた凄い。桶狭間乱入である。織田信長と今川義元がやりあっている途中で伊達政宗が乱入する!桶狭間の戦いは1560年。政宗誕生が1567年…。凄まじい…。このシナリオでは今川義元が伊達政宗に切りつけられ敗死する。ついでに信長も討伐できるのだ(笑)。その他にも謙信が単身で「小田原城に乗り込む」とか、長篠の戦いに武田信玄が登場して武田騎馬隊を指揮するなど設定はとにかく凄まじい…。そこに割り込んだ政宗の部隊が織田の鉄砲隊と信玄の騎馬隊を皆殺しにするのである。どこからどうみても凄まじいの一言である…。
いっそのこと派手にフィクション化してはどうだろう?
それとは別にして、ゲームとしての完成度は低くないと思う。バッタバッタと敵を蹴散らしていく爽快感は素晴らしい。ここまでフィクションで加工するなら、天下統一の後は中国に乗り込んで曹操・劉備らを蹴散らし、ナポレオンとアルプスで対峙して、カエサルをルビコン川にて降伏させるストーリーでも組んではいかかだろうか?それはそれで面白いと思うのだがどうであろう。源義経がモンゴルのチンギス・ハーンだったという伝説があるくらいだから、支倉常長がローマ法王に拝謁したした際に、常長扮した政宗が法王に「斬ってかかる」ストーリーなどがあっても良さそうである(笑)
それにしても織田信長があまりにも曹操っぽくてどうしようもない。その辺は光栄(コーエー)シリーズ。避けようがないものだろうか。苦笑する他はない。
死の壁 [思索の散歩道]
大ヒットしたの養老孟司氏の「バカの壁」の続編といってよい位置づけの書。それほど中身が違うとは思えない。要するに人間一般の「認識」にメスが入っていると言うことである。いや、この場合は「日本人一般」と表現した方が穏当かもしれない。今回はそのテーマが「死」ということであるのだ。我々が普段意識しないところの「死」ということについてどう考えるべきかを問いかける内容となっている。「死の壁」と言う以上はもちろん、「死」の認識に対して何らかの「壁」があることを提示しているわけだ。この世で一番確実なこと。それは「死ぬこと」だと言う。過去の歴史上でも、どのような人物だろうが確実に死んでいるわけだ。確実に自分に到来してくるのに、普段まるで意識していないのが「死」と言うことなのだと彼は言う。
何故、人を殺してはいけないのか
「何故、人を殺してはいけないのか」という理由を著者はこう説明する。「それは後戻りは絶対にできないからだ」と。人類はスペースシャトルで宇宙に行くことが「凄い」と思っている。しかし、「蚊という生命」を一匹作れるかというと、そんなことは絶対にできない。できないのに人間は簡単に「邪魔だ」と言う理由で「蚊」を殺す。さて、いかがなものかというわけである。死刑制度に反対する勢力の主張も似たような内容である。「死刑にしておいて冤罪だったらどうするんだ」と。後戻りできないのだから、死刑などやめなさいというわけだ。スペースシャトルはどうにかしてでも「作れるでしょう」と。死を与えたら最期、絶対に後戻りできない。だから、殺してはいけないという論理である。私はこれはこれで説得力を持っていると思う。
しかし元々、人間に限らず多くの出来事や事象は「後戻りできない」のではないか。著者の言うように変化するものは「自分」で、変化しないものは「情報」である。その点、異論はない。だが生命に限らず、「昨日の自分」にだって絶対に戻ることはできないのだ。人を殺してはいけないのは「殺した相手が元通りにならない」と言う意味での「後戻り不可能」だからではなく、「殺さなかった時の自分に戻ることはできないから」ということでもあるのではないだろうか。何やら「とんち」の様相を呈してきたが、その様なことだと感じるのである。実際、自分が「殺す立場」になったら、「殺す相手」が地上からいなくなって後戻りがきかなくなることよりも、「殺した自分」のことを背負って今後生きていく自信が持てないのではないだろうかという問題が頭をもたげてくるのである。だから「殺してはいけない」のではないだろうか。まともな精神状態ではない人には「後戻りできない」からダメだという論理は恐らく通用しないであろうが…。
死んだら「おしまい」の日本人
興味深い指摘である。どうも、人間と言うのは「あるカテゴリー」に属している間はそのカテゴリー内のルールが世界でも同じであるはずだと錯覚しているケースが見受けられると思った。と、いうのも「死」を見つめる生者の感覚の違いが随分と露骨に出るからである。日本と中国・韓国との違いも出ているのである。一例として、政治問題として靖国神社の参拝に中国や韓国が猛反発するという事象が続いていることを挙げよう。
中国や韓国は日本人が太平洋戦争の主犯格を靖国神社に祀っていること自体に強く憤りを表明しているわけだ。日本側の主だった主張としては、「戦犯なるものを決めたのは戦勝国の驕りである。日本が戦争に勝っていたらそのようなことには絶対にならなかったはずだ」と。故に「その「戦犯」の定義は普遍性を持たない一方的で「怪しげ」なものである」と、このような具合だ。なるほど、確かにそれもそうだ。ところが自国を侵攻してきた指導者が祀られている神社に、日本国の代表たる総理大臣が参拝をするなど「とても容認できない」という主張が中国や韓国の言い分である。これに対し「日本のことは日本が決める」と猛反発する方達も増えてきた。「もう戦後処理は法的に済んだのだから、ごちゃごちゃ後から言うな」と主張し、「さんざん日本はODA等でも貴国らを支援してきたではないか」と、このような主張になっているのである。もはや、水の掛け合いともいえる状況になってきていることは多くの国民が感じることであろう。この日本と中国・韓国の軋轢の間に、実は大きな「死の壁」が立ちはだかっていると言えるかもしれない。
日本では東郷平八郎でも乃木大将でも死ねば「神社」になって祀られる存在となる。生きていた時とは明らかに一線を画すのである。一般人でも「戒名」を与えられ、生前の自分とは「区別」させられる。「死んだら別物」という感覚が強い。はっきりしているのである。換言すれば「こだわりがない」というか、「さっぱりしている」というか、そのようなところであろう。日本人と言うのは悪人でも死んでしまってはその人に対する「怒り」も維持し続けてはいられない質である。何となく許したり、あるいは許す意識などないままに記憶から消え去ったりしやすいのである。日本人特有の「無関心」とも実は関連しているのだろうか。それはここでは置いておく。
ところが、中国と言う国は違うと著者は述べている。中国人は古代の故事にもあるように、対象とする人が死んだとしてもそう簡単に忘れたりこの世と一線を画したりはしないというのだ。「屍に鞭打つ」という故事を聞いたことがあろうかと思う。これは「伍子胥」という中国の有名な武将が、父と兄を殺した元君主を攻めた時の故事である。攻めた時にはもうその「君主」は死んでいた。つまり墓の中というわけだ。国を攻め落としただけでは飽き足らず、墓を暴いてその死骸に鞭を打ったのである。伍子胥はそうやって恨みをそそいだのである。凄まじい恨みであると考えるのは日本人だからかもしれない。向こうではそれが当たり前かもしれないのだ。ちょっと日本人の我々としてはそれは「異常」に映る。「死人なんだからそこまでしなくても」、と思ってしまう人が多いはずだ。それが今の靖国攻撃でも同様なのだ。未だに過去のことに汲々として締め上げてくる行動が日本人にはわからないのである。「賠償責任を果たした」とか、「条約で合意済み」という文言は中国・韓国の感覚としては「別問題」なのだろうと思われる。何故、侵略してきた親玉を「参拝」するのかということが、非常に大きな疑問であり、不満なのであろう。もし、中国が日本を占領していたならば靖国神社に押し寄せるか、「戦犯」の墓を暴くかして「屍に鞭を打つかもしれない」ということである。それ位、「死」の感覚が日本と中国・韓国では違いを見せているのである。そうした意識の違いが今日の摩擦の一部を引き起こしているのかもしれない。しかし、これは決して中国・韓国の政治的な意図を完全に否定するものではないことは付しておく。これらを「政治的」と感じ取るのも日本人の特色かもしれないが…。著者はこうした感覚を「共同体のルール」という言葉で表現していた。日本と中国・韓国では「共同体のルール」が違うとも言えよう。
死んだ後はわからない。だが…。
「死んでしまった自分」を考えるのはやめなさいと著者は言う。死んだらその自分を客観的に見ることなどできないのだから、事実上「死んだ自分というものはこの世にない」という立場をとっているそうだ。だから、「死」も怖くないと言う。「寝てる間に死んだらどうする」とも問いかけている。意識の無いままに死ぬのだから「怖いと感じる暇」がないというわけだ。そして、死後の世界も誰も提示できるわけではないし、行って来た人がいるわけでもない。だから無駄なのだというわけだ。残るは、身近な人の「死」か、あかの他人の「死」しかあり得ないと言うのだ。それも一理ある。
だが、私は「どう死ぬか」を自分で決めたい。いつ死ぬかは誰もわからない。しかし、「どう死ぬか」は「どう生きたか」で決まるものと思っている。仏教では「生死不二(生まれることと死ぬことは違うことではない)」と説く。この考えには賛成だ。そうでなくては「各個人の生き方」にも価値がなくなるし、「死」という出来事を経ることで人間が行ってきた全ての事柄を平等化されるのは解せないからだ。死後の世界が「無い」と考えるより「有る」と考える方が「死」に関して積極的になれるのではないかと思うのだ。そして「死」に関する積極性はすなわち「生」に関する積極性といって差し支えないだろう。死の積極性といっても自殺をするとかそういった意味ではない。自分も必ず「死」が訪れることを認識しておくという意味である。
ここに取り上げた内容は本書のほんの一部である。脳死の問題や死の定義の難しさなど、広範多岐に渡って「死」を見つめている。著者の立場(医学者、解剖学者)ならではの観点は、読者に新しい視点を提供している。書の中では著者がお世話になった先生を「解剖した」時の話も登場する。もちろんその先生は望んで自ら「解剖の対象」になったわけだが、そのような状況での著者の心理描写などは普段は味わえないものであろう。
余裕があるなら「バカの壁」とセットで2度ほど読まれることをお薦めしたい。内容の正誤を判断するだけではなく、「認識一般」を鍛える手段にはなろうかと感ずるからである。日本、あるいは人間という「共同体のルール」に無意識に囲まれている自分を客観視できるいい機会にもなろうかと思うのである。
バカの壁 [思索の散歩道]
この本はここ数年で最も話題になった書の一つである。センセーショナルなタイトル「バカの壁」だが、タイトル買いをした人は少々面食らったかもしれない。その内容たるや「バカ」では理解しにくいのである。最初の数ページだけ読んで本を閉じる人も多かったようだ。中身はさすがに脳外科の先生らしい切り口の論旨であるが、多分に筆者の社会の矛盾に対する批判というスタンスが見て取れる。社会の何が矛盾なのかをあぶりだしているとも言えるだろうか。平素、我々が認識している「一般通念らしきもの」に対して冷や水をぶっかけるのである。その意味で論が非常に客観性に立脚しているかと思えば、怒りのためかやけに感情的だなと感じることもある。本の帯に「話せばわかる」なんて大ウソ!と書かれているが、キャッチーなコピーとは裏腹に、本文中ではさほどの意味を持ってはいないと思われる。本である以上は売らねばならないので、編集部としてもできるだけ人を惹きつけるような文言を考えたのであろう。
ともあれ各章がそれぞれ示唆に富んだ内容となっているので、範囲を限定し、かいつまんで感想を述べていきたい。
「わかること」と「知識がある」ということの違い
「論語読みの論語知らず」という言葉がある。要するに中身は知っているけれども、現実の動きがそれに即していない状況を揶揄しているのである。忠孝を基とする論語を学問として勉強している人が、親を虐待するというようなことであろう。これこそ知識はあるけど、論語をわかっていないという典型例ではあるまいか。誤解を恐れず言えば論語に示された内容のように行動することを「わかる」といい、文章を暗記している人を「知識がある」ということになるはずである。筆者は「わかる」ということはそんなに簡単ではないのだと主張している。
例えば、テレビで報道されているイラク情勢を我々は受け取ることができる。様々な状況が逐一入ってきているようだが、では報道で本当に「イラク」をわかることができるのかという問題がある。飢えの状況はどうなんだ、気候はどうなんだ、爆弾やテロの恐怖はどうなんだと、これらのことが我々に本当にわかるのか。新聞・テレビ・インターネットからの情報を集積して何事かを「わかった」気になっているだけのことである。要するに「わかりっこない」というのが筆者の主張である。そうなればやはり「客観的事実」に対するスタンスも自ずから定まってくる。突き詰めると「誰がこれを確かめられるんだ」ということになるわけだ。筆者は「客観的事実」は最終的には信仰の領域だと論じている。
「常識と雑学を混同している」のが日本人だと本文にあった。上の例で言うなら「イラクに関する広範な雑学は持っているけれども、それをイラクの現状なんだと勝手に頭の中で常識にしてしまっている」ということである。筆者は常識についてフランスの思想家モンテーニュの解釈を受け、「誰が考えてもそうでしょ」ということだと述べている。絶対的な真実かどうかは別として、「人間は普通こうでしょ」ということが言えるはずだと。これは「倫理学の父」ソクラテスの言とも合い通ずる。彼は「普通はこうでしょ」ということを「対話」を通じて導き出そうとしていたのである。哲学の領域まで踏み込んでくるものと思われるが、筆者はそこまでは言及していない。
2,3回読んでみるべきではないか
「バカの壁」ではその他、認識一般に対するスタンスの過ちを説いている。科学の絶対性への疑問や人間の個性についての認識に対する問題、脳に関する考察、変わるものと変わらないものとの違いなど、普段日本人が疑問に思わないことにメスを入れている。そして筆者が書くこの論旨をも「正しい」と勘違いするなとも述べている。筆者の問題提起を頭に入れながら1回読み、その視点から社会を観察し、少し後にまたもう1回読んでみると筆者の言わんとしていることの輪郭がわかるようになる。そしてもう1回時期を空けて読めばかなり理解できるのではないだろうか。その頃には筆者の視点で社会を見渡す「クセ」がついてくることだろう。それは日本人の傾向を分析する上で随分と役立つのではないだろうか。筆者がこの境地にたどり着くまでに要した時間を「バカの壁」1冊を2,3回読むことで吸収できるのである。人生で視点を変える機会などそうあるものではない。その意味で本書の指し示す方向は重要であると感じている。一読と言わず2度3度と読むことをお薦めしたい。
blog友人V.S直接友人(50記事記念投稿) [思索の散歩道]
最近考えること。blog(Web)で知り合った人と直接知り合っている人。何が違うのか、それとも違わないのか。
一人の人間で直接知っている人の数などたかが知れている。多い人でも数百人か、よほどの人で数千人か。1万人と知り合いという人間は非常に稀だろう。例えば自分の携帯電話の電話帳を見てみる。誰しも直接知り合っている人の多くを携帯電話の電話帳に登録するはずだ。私の携帯は500件程度登録されている。登録はしているけれど実際にかける・かかってくる数は更に少なくなるだろう。知り合っている人の数などこれくらいなものだ。携帯電話の登場初期はせいぜい50件くらいまでしか電話帳登録できなかったものだ。それが近年徐々に拡大してきたが、700件とか多くて1000件くらいまでで頭打ちのように見える。それ以上は必要ないのだろう。
では、Webで知り合った人を考えてみる。インターネットの世界に慣れてくるとネット上でほぼ毎日、人のコメントや記事を目にしている。「お気に入り」に入れているサイトなどは、直接知り合っている人以上に「触れている」わけである。直接知り合っている人で毎日やりとりするなどということは、恋人か家族等の何か特別な関係でなくてはあまり例がないだろう。ある人は、時間のある時は新規コメントがないかどうかひっきりなしに同じ人のblogへ通うこともあるだろう。その他、特定のblogにきちんとコメントを残す交流をしている人もいるだろう。そして互いに啓発しあい、挨拶しあい、意見交換をしあう。よく考えると非常に濃密な人間関係ではなかろうか。もちろん、ネットでの交流ではその人間の持っている全てを知ることは難しいだろう。だが、直接知っていれば全てを知れるかというとそうでもないことは、現実社会に生きていれば自ずとわかることである。また、コメントを残さなくてもそれを見ている人達が確実に存在する。自分が知らなくても相手が知っているケースは多いはずだ。この人数は実際に直接知り合う人数よりも多くなってしまうのである。アクセス数やコメント数はサイトやblogを長く続ければ、増えることはあっても減ることはない。数万、数十万などあっという間だ。ネット文化が否定的に受け取られるのは、一部の無責任・無倫理・無道徳・無軌道な文言等が氾濫するからであろう。また氾濫する情報の取捨選択が難儀になるからというのもその理由かもしれない。しかし、それだけがネットの評価となればお粗末極まりない。何事もそうだが、長所を伸ばし、短所を目立たなくすればよいのであると思うがどうであろう。そして、ネットを使いこなすか振り回されるかは結局のところ、それを使う人間の側の問題なのである。
と、私が考えるようになったのは理由がある。インターネット文化論や提言を見ると、「バーチャルな世界に浸ってしまい、世間と没交渉になる」という考え方がある。それを目にしてからである。考えるようになったのは。人と直接知り合いじゃないから、無価値だと言うわけだ。それは違うと思う。なぜなら音楽を聴く人がいる。彼らはそのアーティストと直接知り合いなのか。ほとんどがそうではないだろう。でもひっきりなしにCDをかけては歌や曲を聴いている。これだって極めてバーチャルな世界である。実際に歌手は歌ってはいないのだ。そのバーチャルな世界に陶酔して楽器を始めたり、作曲したりするわけだ。これを「世間と没交渉」と言えるかどうか。パソコンの前に座っている人と、スピーカーの前に座っている人。そんなに違うとは思えない。美術品が好きな人。それを作った作家と知り合いか。そうではないだろう。小説を読む。その作者と知り合いか。違うだろう。だから音楽を聴くのも、本を読むのも、美術鑑賞も、ネットも決して世間との没交渉に直接繋がるわけではない。バランスの問題だろう。
人間は自分を突き動かすエネルギーの側にいるのは当然だ。音楽だったり、食事だったり、読書だったりする。その中にネットがあってもいいのである。直接知っている人か否かなど、本人にとってさほどの意味があるのだろうか。「ネット??」、などという先入観も必要ない。自分は自分なのだ。人間はともすれば二元論に陥りやすい生き物だ。右か左か、上か下か、男か女か、科学か宗教か、金か心か、など、選択を求めたがる。web上の友人か、直接知る友人か、というのも似たような問題だろう。私はインターネットを始めて数年になる。つまりネットで知り合った数年になる友人がいる。誰かに「直接知っている友人とネット上の友人とどっちが大切か?」と聞かれたらこう答えるつもりだ。
「どっちも大切だ」と。
原因と結果の法則 [思索の散歩道]
この本が日本で売れるとは思っていなかった。どちらかというと唯物的に物事を捉えがちな国民性であると考えていたからである。しかも短絡的思考に基づく行動原理をもち、長期的視野に立った物事の洞察ができない若者が増えている中でのことなので、なおさら意外である。もちろんそうした若者が読んでいるのかどうかはわからないわけだが…。とにかく現在かなり売れている本なのだそうだ。哲学の結果のような内容である。背表紙を見ると「聖書に次いで一世紀以上ものあいだ多くの人々に読まれ続けている」とある。日本での完訳は初めてなのだそう。「思いが全てを決める」とも書かれており一見、宗教教義の様でもある。哲学と宗教は究極的には意識世界と無意識世界に大別されると私は思うが、本書はそのちょうど中間に位置するといっていいのではないだろうか。
普段は意識しない分野にまで「原因と結果の法則」がある
さて、本書のテーマはタイトルの通り「原因と結果の法則」である。主題は「人間内部の精神がその外界に及ぼす作用」とでもすればよいだろうか。私なりの解釈だが例えば、「ごはんを食べたからおなか一杯になった。」というのは外界が外界に及ぼす影響である。食事→満腹となる。ではこれはどうだろう。「財布を偶然拾った。持ち主が困っているだろうから警察に届けた。すると以前見当たらなくなった大切なものが見つかった。」これは「持ち主が困るから届ける→大切なものの発見」となっているが、客観的に考察すればこれらは関連性のない偶発的な出来事であると捉えられる。しかし、著者のジェームズ・アレンはこの「偶発的な出来事」を必然であると説く。要するに「困っている人を助けよう」という「心の作用」が外界に働きかけて「見当たらなかった大切なもの」を発見させる引き金になったと考えるのである。
悪しき「原因」を改善することが肝要
アレンは読者に対し「原因を改善せよ」と呼びかけている。意識的にせよ無意識的にせよ不純な思いや考えを改善しなくては外界の環境の良化は望めないということらしい。「多くの人間は環境を改善することにはとても意欲的だが、自分自身を改善することはひどく消極的である。」と痛烈である。現在の政界にも言えることであろう。哲学を政治にどう活かすかは私が課題とするところである。政治はある側面では「取引・駆け引きと利害関係の調整」を桧舞台としている事実があるのだが、そうした慣習自体に本質的問題があると考えるならば、哲学のような「キレイゴト」が切り込んでいけるのはその辺りであろうと思う。
「この宇宙を動かしているのは混乱ではなく秩序である。」とのアレンの言葉が真理であるならば、今の政治スタンスは必ず国家の滅亡を招くはずである。いや、政治スタンスだけではあるまい。およそ身の回りの人間関係にこそこの言葉は当てはまる。この「秩序」は「法則」と同義なのである。ますます進む隣人・近所・友人等との希薄な関係。このような社会になったのは、この国の国民が持つ「原因」の儚さの故か。
今を生きる。 [思索の散歩道]
人間は生きなければならない。
どうしてもカレンダーをめくらなくてはならない。時計の針は戻らない。
人間は「心」というやっかいなものを背負って生きなければならない。
東南アジアの大津波を目の当たりにしても、イラクで人質が殺害されても、アメリカの大寒波の悲劇を知っても、実家の大地震を知っても、それでも知りながら私は私の今日を生きなければならない。
この否応なしの厳しい現実。痛む心を背負って、それでも進まなくてはならない現実。
小紋さんのこと。
小紋さんを知っている人は今回のことで色々考えただろう。
言葉にならない人もいただろう。
そして、彼を全く知らない人がこのblogには10000を超える数でいる。
彼らは彼らで何事もなく変わらずにblog生活を送る。
それも事実。行く川の流れの無情なまでの整然さよ。
この否応なしの厳しい現実。痛む心を背負って、それでも進まなければならない現実。
私は私の道を行く。泰然自若として。
私は進む。私自身を励ましながら。
それでいい。進むのだ。前へ。
道はあるのか、つくるのか。 [思索の散歩道]
人は「まぁいいか」と、人生で何度思うのだろう。
よく「何歳からサンタを信じなくなった?」と聞かれることがある。
私は問い返してみたい。
「あなたはいつから自分の理想を信じなくなったのか?」…と。
「まぁいいか」の数だけ理想から遠ざかる。
私は、少しだけそれに抵抗したい。
ある哲学者曰く、「人間の最大の失敗は失敗を恐れて行動しないこと」だと…。
私の行く道は、もう「運命」という名で用意されているのだろうか?
それとも、誰かがつくってくれるのか?
その哲学者が腕を組んで後ろからじっと私を見ている気がする。
その目は鋭くて優しい。
道は少しずつでも「つくる」しかないんだ。
それをちょっとだけつかみかけた時、「まぁいいか」との絶え間ない格闘が私の中で始まっていた…。
人間社会で避けられないこと [思索の散歩道]
人間の生き様を追っていくと、必ず突き当たる事実がある。それは「他者の評価を受けること」が人間として避けられないということである。他の生き物にはないものだろう。他生物であるのは(例外があるとしても)せいぜい「現在の力関係の評価」を本能的に行うことであろうか。人間だけはそれを文字なり、音声なり、記憶に残したりして先人の軌跡を残そうとする。時には正確に、時には捻じ曲げて。
何をやっても評価にさらされるのだ。政治家でも、文筆家でも、音楽家でも、スポーツ選手でも、哲学者でも、宗教者でも、科学者でも、一般家庭の主婦でも、何でもである。評価を気にするかどうかとは別次元のことである。人間は他者に評価されてしまうのだ。隣の奥様を評価する町内会の人。校長先生を評価する生徒、あるいは教員。アーティストを評価するファン、あるいはアンチファン。しまいにはロックだパンクだポップスだを評価しだす。その音楽がキャッチーかどうかなんてことまで言い出すのが人間だ。「キャッチーは安っぽい、いやキャッチーがいいんだ。」などと言いあっている。どうやら評価しないではいられないのが人間らしい。バットを握ればバットの評価、ラケットを持てばその評価、ゴルフのクラブを握ればその評価、食事に行けば味がいい、まずい、待たせる、待たせない、本を読めば文体が好き、発想が好き、長い、短い、面白い、つまらない、空気もうまいだ、まずいだ、雰囲気がいい、わるい、おしゃれだ、などと人間は間断なく評価している生き物だ。何とも忙しい生き物である。
そして、自分なりの評価を他人と共有する喜びを感じたかったり、意見をもらいたかったりして本を書いたり、意見を交換したり、思想を広めたり、新聞を出したり、ネットで書き込んだり、サイトを立ち上げたり、時には多くの人を扇動したりするんだろう。そして自分の価値観と近い人を、自分の周囲に置きたがる。その人に同意を求めて、同意を得られることに無意識に安心感を持っている。人間とは実はそこまで弱いのか。いや、だからこそ強いのか。人間とは元々「知ってもらいたい生き物」なのだろうか。
色々な人の様々なblog記事にコメントやnice!トラックバックが付いている。それもやはり「自分なりの評価」を与えているのである。同意見、反対意見、中立など、どの立場を取っても評価していることには変わりない。我々人間社会は、評価の中に存在していると言っても過言ではないように思うのである。
人類の善意よ、世界の安定のために連帯せよ。 [思索の散歩道]
スマトラ沖大地震で数多くの尊い命が失われた。全く予測外の不幸に強く哀悼の意を示したい。
苦しみにあえぐ人を助けるために、都市の復興のために、ボランティアから国家的援助に至るまでの多大な精神的善意が急速に集まっている。この神々しい精神を人類は断じて失ってはいない。
新潟の大地震の時も、阪神大震災の時も、三宅島の噴火の時も、麗しい精神と人間の連帯が垣間見えたことは疑いの余地もない。助けることで見返りを望むなどと言う卑しい心は感じない。
地震や災害等は「目に見える具体的不幸」と言える。そしてそれは積極的な善意を集積しやすいのである。善意が集まるのはこうした「具体的被害」が確認できる時だけなのだろうか。
日本のある教育哲学者曰く、「人は病気が治ったら快癒祝いをする。しかし、何故健康な時に健康祝いをしないのか。健康で普段と変わらずに過ごせること。これこそ重要なことではないか」と。
これはまさに人間の認識の盲点をついた言葉だと思う。現代の人類は不利な状況に落ちいって初めて平素の価値を知ることが多すぎる。
「困っている人を助けるのは人間として当然。しかし、そうでない時には人間は善意を発生されることはできないのか。」という命題に突き当たる。
「人間の善意の集束が世界の安定をもたらす」と説いた、イギリスの哲学者がいる。これは非常事態の時に発生する善意と、そして何事もない普段から心に抱き続ける善意の両方を指している。人間一人が起こせる力は少ないと考える風潮が最近特に強い。
だが、人間が持っている心のサイズを測る定規などあるだろうか。確度を測る分度器があるだろうか。重さを測る計器があるだろうか。
人間の心は何処までも拡がっていくのだ。際限などあろうはずがない。星を見るのが好きな人がいる。それは自分と繋がっていることを心で無意識に悟っているからだ。
人間の体は小宇宙だと言った学者がいる。医者がいる。宇宙は今でも拡がっている。拡大し続けている。人間の精神と可能性も全く同様である。その意味で宇宙と人間を同一に捉える考え方は不思議ではないのだ。
人類は善意を連帯させることが出来る。それはスマトラの件でも、新潟の件でも証明済みであろう。我々は誰かわからない人のために輸血をしている。骨髄の提供も同様だ。これらは困っている病人を助ける手立てになる。ならば、テロや戦争におびえるこの世界を救える希望は何か。
それは何事もない普段から自他を思いやり、共に生きて栄えていこうとする強い意志によるものではないだろうか。
葬儀屋の友人が口をそろえて言っていた。「人間は生きたように死んでいく。それは顔を見ればわかる。自他共に大切にした方ははっきりわかる。相に出るんだ。これだけは間違いない。」と。
こうした生き様をした人間が増えることが世界の安定につながることは言うまでもない。
だから、ほんの少しでもいい。ちょっとした人間の気遣いを重ねたい。そしてそんな人類に期待したい。希望を持ちたい。絶望はいらないのだ。それが今の私の正直な気持ちである。
今年の目標 [思索の散歩道]
もう、今年になって5日が経過しようとしている。私の今年の目標は明確である。
来たるべく夢に向かって自分の学問の再構築と、思想を磨くこと。学問と思想を武器に社会に対して形ある価値を発信していく準備期間にする。一日を一週間と思い学ぶ。
年始から猛ダッシュ中。凄い勢いで本を読破。人と会い、話し、ガリ勉状態である。友人達とも話している。歴史観・人類観・人生観・文明論・諸科学を正確に身につけていきたい。その上で、自分としての確固たる思考を持ちたい。曖昧だった考えと知識を再整理するつもりである。
考察ノート
-人間の尊厳、人生の目的、必要悪と正義、地球の未来、文明の衝突、教育の目的、人種に壁はあるのか、肉体の進化は精神の進化を伴うか、地理と人間、経済と精神、組織と個性、科学と宗教、政治と幸福、精神と肉体、宇宙の構造と人体の構造、人間生命と諸生物の生命、人類の共通項、高齢化社会、人口問題はどのように人間尊厳に関わるか、介護・育児、医療と哲学、東洋・西洋・中洋、紀元前の日本、偉人の伝記・思想、専門性と普遍性- etc…