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ネット上での匿実名論争を考えてみる…中編 [思索の散歩道]

 前回記事の続きです。

 本エントリーはネット利用における匿名・実名論争を取り上げたものですが、そこから敷衍してネット世界に関わるユーザー欲求の本質をどう考えるかということ、それから、ネット参加の際にユーザーの足場となる「名」に関することについて考察を進めていくということで前回記事を終わりました。

 というわけで早速、前者の問題について。

 これは多分にユーザーの「主体意識」が少なくない要素を担っているのではないかと私は考えます。この「主体」という語に関しては哲学的な物言いをすると果てしない議論になりますので、ここでは一般的に使用される「私」あるいは「自分」という程度の意味で用います。近似の概念に対する類推の程度については、このエントリーを読まれる方々の自由裁量にお任せいたします。つまり「主体」という言語を、「私、自分、我々、自ら、ユーザー」等々の容易に推測可能な範囲内で表現出来る語に置き換えて考えて頂いて構わないという意味です。
 また、このエントリーは本来のテーマである「実名か匿名か」が中心に語られるべきですが、ネット上ではH.N(ハンドルネーム)での人格もまた数多く見られるので、それらも併せて複合的に捉えてみたいと思います。


・実名も匿名も実は可変的 

 
 インターネットの使い方の一つとして、H.Nを用いて意見を表明したり、コメントを書いたりしますよね。このSo-net blogでも例に漏れません。まぁ、私に関して言えば「参明学士(略して明士などと呼称することもある)」がこの記事を書いていると言うことになります。他人のブログにコメントする時も、この人格で作業しているわけです。その時、ネット上に立ち顕れる「もう一人の自分の存在」というものを認識している状況が生み出されます。
 それを指して「仮想人格」とする向きもあるようですが、私はそうした見解にはどうも違和感が伴うんです。そもそもヒトという生物に「本当の名前」、「実名」などないのです。我々が「実名」と考えているものは、「戸籍」に搭載された法律的な「名」に過ぎません。時折、「この語は名前には使えない」と申請を却下されたというニュースが聞こえてきますよね。名は人間の「決まりごとによって与えられている存在」であることが分かる実例の一つです。名は自由に決められるのではなく、法的な束縛を受けているのです。
 まして、生まれた国家や民族や両親が違えば自ずと名前の与えられ方も異なってくる。名前はそれ自体、可変性を含んだ概念でしかないとも言えるでしょう。条件次第で幾らでも名前は変更できてしまうわけですしね。乾いた見方をすれば、名前というものはヒトを分類して認識の用を足すための「記号」でしかないのです。吉本隆明さん風に言えば「共同幻想」と表現しても差し支えないはずです。ですから、ネット上での匿名・実名論争は…おぉぉ!?、つい脱線してしまいました。

 ともあれ人間が関わる出来事はリアルであれネットであれ(こういう表現もあまり感心しません。何故ならネットだって現実世界の一部を構成しているからです)、実名・匿名・H.Nを問わず、その瞬間の自分を演じている「舞台上の劇である」とも言えるでしょう。そうした意味においてユーザーはネット上の舞台に立ち、自己を再発現させることによって何らかの活力や喜びを持ち得ているのではないでしょうか。
 そして自分がネットに参加する(ネットを利用する)意義や意識を醸成する足場としての「名」があるわけです。その時に自分の人格の主体性を引き受ける役割を果たしているのがH.Nです。これは実名でも匿名でもH.Nでも質的に別物ではないでしょう。この次元においては実名にこだわる必要性は特に見出されるものではありません。


・多様性があるからこそ発展したインターネット
 

 インターネットは「多様な人格を許容する場」と捉えても差し支えない機能を有しており、その可能性を内的に孕み続ける存在であると考えて良いでしょう。ネットが多様な人格を許容するのならば、そこでの意見もまた多様であり得るのは誤謬のない論理的帰結です。
 いみじくも、ネットは多様性の宝庫であるからこそ発展を遂げてきたとも考えられませんか。ネットの「プレイヤー」である人間の脳は多彩な思考を紡ぎ出す機関ですよね。脳のような多様性の権化とも呼べる臓器を持つ人間が、「匿名か、実名か」などの実質的意義の乏しい一義的な決まりごとをネット世界に実装しようと図るというのです。これが果たしてネット世界に規律を与えるような知的作業と言えるでしょうか。

 ネット世界の規律と責任。
 それは匿名や実名と言った「主体の足場」を固定させることで達成されるものとは思えません。多様性の制御、あるいは抑制にも繋がりかねない手法での規律重視姿勢には懸念を表せざるを得ない。多様性と規律がトレードオフの関係になってはいけないはずです。
 言論が氾濫するネット世界で名誉毀損行為や根拠薄弱な情報が横行していることは私も理解しているつもりです。これを放置できないとする意見もよく分かります。このままで良いとはもちろん私も考えていません。
 次回のエントリーでは、インターネットや情報の本質について考えながら、この問題の着陸点を探っていきたいと思います。

 
 続きます(いやはや、思ったより長いなぁw)。


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銀鏡反応

インターネットがアメリカの軍部通信(ARPAネット)を起源としているとは、私がネットを使いはじめの頃よく耳にした話ですが、ARPAとして出現したその時点で、既にインターネットは現実社会を構築する要素の一部として現れたのではないかと思います。
by 銀鏡反応 (2010-05-15 16:05) 

参明学士

★銀鏡反応さん…そうですね。ネットがアメリカ発の技術であることはよく知られていますよね。
結局のところ、由来や目的はどうあれ、ネットは人間と人間を結ぶ通信分野の進化系でしょうから、飛脚・電信・電話・FAXなどの技術革新と同じく、より高速に、より情報量を多くしたいとする人類の要求に応えたものだと言えますね。その意味でもネット上の舞台は仮想などではなく、揺ぎ無い現実であるという感覚が私の中で日々強まってきているようです。
by 参明学士 (2010-05-16 17:20) 

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