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聖灰の暗号(帚木蓬生)上・下 [本ココ!]

聖灰の暗号〈上〉

聖灰の暗号〈上〉

  • 作者: 帚木 蓬生
  • 出版社/メーカー: 新潮社
  • 発売日: 2007/07
  • メディア: 単行本
聖灰の暗号〈下〉

聖灰の暗号〈下〉

  • 作者: 帚木 蓬生
  • 出版社/メーカー: 新潮社
  • 発売日: 2007/07
  • メディア: 単行本
 今回の「本ココ!」は知人から薦められた書を紹介する。

 この作家の本を読むのは初めてで、名前を聞いたこともなかった。本書はミステリー、あるいはサスペンスといったジャンルに属するものと思われるが、私は「ジャンル分け」に拘っていないし、価値を見出していないので、そういう見地からの感想は避ける。なお、本書の位置づけは全編を通して「フィクション」という扱いになっている。

 物語の舞台は南フランス。キリスト教(ローマ教皇庁)から異端と認定され、「生きたまま焼かれる」などの徹底的な弾圧を蒙った「カタリ派」にまつわる話である。須貝という若手の日本人学者がフランスの学界でカタリ派の歴史について講演を行い、今日に伝わる一連の歴史解釈が「ローマの意向」を多分に含んでいることを指摘し、「弾圧された側」から見た真実を究明する必要のあることを訴える。調査中に偶然入手した古き地図から、カタリ派の何らかの痕跡を直観し、須貝はその調査の旅に出る。何ゆえか旅先で起こる様々な調査妨害行為の中、徐々にカタリ派の残した真実が明かされる。この調査が妨害される意図は何なのか。過去を調査しながらにして、現代的問題に接続する印象を与えるものでもある。
 
 本書は「過去を辿るための謎解き」と、「真の信仰(キリスト教)とは何なのか」という問いを並行して捉えさせる内容と言ってよい。私としては謎解きそのものよりも、信仰のあり方について多くを考えさせられるものであった。
 キリスト教が成立して千年も経つとローマも陰に陽に「権威そのもの」の姿を見せるようになる。そうなると、「ローマの考え方がキリスト教」なのであって、「キリスト教の精神がローマにある」というものではなくなってしまう。聖書を信仰の根幹に据えて民衆の中に信仰を確立しようとする「カタリ派」が自らを真のキリスト教徒と認知する一方で、「ローマこそキリスト教」と強弁する高級聖職者達はこれを一切認めず、なおかつ宗教的権威と圧力によって軍隊を組織し、意に沿わぬ者を「悪魔」とあげつらい、徹底的な弾圧・排除を企て実行に移す様子は実におどろおどろしい。すでにローマは「キリスト教の看板を掲げた身勝手なローマ教」でしかなかったと言えそうだ。特に本文中に描写される宗教尋問で、カタリ派の人間が聖書の語を用いて正しきキリスト精神の軌道を論じる段での、ローマ聖職者のとった完全無視の態度に私は冷や汗が流れるのを禁じえなかった。何故なら、キリスト教の正当性を保障すべき役割を持つはずの聖書の言葉が軽んじられて、当代の聖職者の意思が宗教的正義を肯んじえるものとすると、明らかにその聖職者が「絶対者」として君臨する世界になるからである。宗教は人間精神に内在する可能性を認め、それを開発するものであって、それ以外のものではないはずだ。これはもはや宗教と呼べるシロモノではない。この物語では聖書を正確に滔々と語る正直な人間が、次々に異端とされて「生きたまま焼かれていく」のである。逐一、燃やされる人をローマの聖職者は「裁きの目」で凝視しているのだ。このことに恐怖を感じない人など誰もいないだろう。

 人間にとって無宗教という信仰を持つ者を含めて宗教は必要だ。だが必ずしも宗教的権威がその宗教を正確に理解し、伝播させるかどうかは別問題だ。ここがごちゃ混ぜでは人は判断基準に迷うことになる。そうしたところに「宗教的権威(者)」が付け入ってくるのである。宗教的権威者の判断こそ、宗教の正邪の判断基準であるという考え方は非常に危険だ。権威者・権力者は意のままに人間を操ろうとする「巨悪」をその心に持っている。それを排除しなくてはならないのだ。信仰心で繋がった者の大きな仕事(この場合、社会的使命と言い換えてもよい)はそこにあると私は考える。本書のテーマであるキリスト教・カタリ派の人々は、その意味で宗教的権威の欺瞞を鋭く指摘し、自らが焔の中で焼かれていくことによって、「キリスト精神を正しく受け継ぐ者」としての信仰を再確認し、裁いた側のローマ聖職者達には「キリスト教の信仰者に似て全く非なる者」という永遠の汚点を刻ませたとも言えそうだ。

 それにしても、信仰の拠り所を聖書に求めて正しく生きようとすることが、生きたまま焼かれるまでに苦痛を伴うものなのかと思うと暗澹たる気持ちにならざるを得ない。権力者と宗教者の戦いも壮絶であるが、宗教権威者と信仰者の戦いもまた壮絶である。人間が「正しさ」を求める生き物である以上、こうした問題は常に起こりうる。そのような時に私がそこにいたならば、権威を振りかざして自己保身を図る弾圧側ではなく、やはり苦難と共に生きる民衆側の一人でありたいと考えながらページをめくっていた。

 なお、作中で歴史家の使命について須貝(アキラ)とその指導教授の意見が交わされているが、印象的な部分をついて以下に挙げておくことにする。

・「アキラ、私たち歴史家の仕事は、あそこに葬られている偉人たちの歴史を顕彰することではない。それは誰か、他の連中に任せておけばいい。私たちはそれまで見えなかった過去を見えるようにしなければならない。見えているのに気づかなかったり、見ようともしなかった過去を明瞭にするのが任務だよ。ちょうど科学者が顕微鏡をのぞいて細胞を発見したり、病原体を見つけたりするのと同じだ」

・「弾圧された側の言い分を一切抹殺しておいて、弾圧した側の言い訳を大量に流す。いつの世でも、この歴史は繰り返されている。イメージは、この人為的な操作でどのようにでも変化する。その操作のからくりを明らかにして、埋没した歴史を甦らせるのが、私たちの務めだ」


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