少年時代~床屋にて~ [明士の日々]
最近、夢に出てくることを目覚めてから考えたりするのですが、そうした中で思い出したことがありました。
まだあれは私が小学校一年生くらいの時だったでしょうか。風の強いどんよりした日に親の知り合いの床屋さんに散髪に行ったのです。当時、1,200円の料金だったと記憶しています。私の髪というか、髪の生え方って少し特殊らしく、髪自体は直毛でその向きが揃って前方に向かって生えているんですが、散髪技術としては若干難易度が高いのだそうです。今は髪もある程度の長さがありますし、特殊な感じはほとんどしないのですが、当時は短めに刈っていただけにそれなりに見た目の違和感も出やすかったようで、技術のある理容師の人に特別にお願いしていたのです。
お話はここからで、いつものように散髪終了後にポケットに手を入れると、ないんです…。確かに親に貰ってきていた1,200円のうち、お札の1,000円が。200円はあったんです。でもいくら探しても紙の方がない。待合室のソファの間とか床とか探したんですけれど、なかったのです。
私は半べそになりました。子供ながらに1,000円の価値はわかっています。200円と1,000円ではどちらが大切かも。あれほど困ったことはないかもしれません。お店の人にそれを伝えて、私は風の強い外に1,000円を探しに飛び出て行きました。といっても、子供の考えることです。外に落としたとして、一体どこを探すのでしょう?風の強いその日に落とした1,000円にめぐり合うなんて考えられることではありません。きっと床屋の人もそう思っていたことでしょう。でも私は探し回りました。夕暮れで外が段々暗くなるまで。
少年は探しました。困り果て、涙をぬぐって。
悲しかったのです。
1,000円を落としたことだけではないのです。
悲しかったのは、周りの人が「明士くんがウソを言っているのではないか?」と思っていると私が感じてしまったことです。もちろん、そう思われたのかどうか本当のところはわかりません。
ただ、「僕は本当に1,000円をなくしてしまったんだ!」と心で強く叫んでいました。
見つからず、疲れ果て床屋さんへと向かうトボトボ歩きの私。
床屋さんは200円を受け取って許してくれました。
「大事な方をなくしちゃったね…」と言われたことが忘れられません。
きっと誰も覚えてはいないだろう出来事。
私の中にはずっと刻まれています。
思い出すたびに、さびしさを連れてくる記憶。
母親が許してくれたことが極端なコントラストとして鮮明に残っています。
お金は払いに行ってくれたようでした。
何とも言えない温かさを感じた私。
さびしさと一緒に嬉しさも連れてくる不思議な記憶。
あの日、少年の小さな胸を痛めた床屋さんでの出来事。
言葉に出せば、ほんの少しの出来事。
あの時の私と今の私。体は大人になったけれども、一貫して同じ「わたし」。
心も変わらずにいたいものです。
風の日に1,000円を探して飛び出していった、あの頃のように。
こういうお話、たまらないです…私の中にも同じような思い出がたくさんあるからでしょうけど…。
父が買ってくれたプラモデルをダメにしてしまったこと。叔母のために温めようとして失敗したカレーのこと…。
今なら些細なことなのかもしれないけど…ほかにいくらでも代わりに出来ることかもしれないけど…でも、子供の頃の私には、それが取り返しの付かないことで…何かの拍子に思い出すと、今でもちくりと胸が痛んだり、きゅっと胸が締め付けられたり、ゾッとして思わずその場に立ち止まってしまったり…。
出来るなら、今でもそのときに立ち返ってやり直したいことの数々です。
by kyao (2008-04-18 08:37)
★kyaoさん、わかります。おっしゃっているその気持ち。いたたまれなくなる感じってあるんです。ちょっとしたことで「ズルさ」を発揮したり、ごまかしたり、失敗したりと、子供だからある種「当たり前」なのかもしれませんが、当の本人は大人になってもそれを軽いものとして受け止められていないってことがあるんですよね。
いつか我が身が散って、閻魔のようなものに裁かれたりすることがあるのだとすると、そういう子供の頃にやってしまったことも含めて判断されるのだろうか?と漠然と考えちゃったりすることがありますよ。
人間も生物だから欲望をそれなりに抱えて生きていますが、単純な生物と違う人間らしさというのは、「痛みを抱える心がある」というところに発揮されるのかもしれません。
「我が身を振り返って苦悶する」なんて生物は人間だけでしょうしね…。
by 参明学士 (2008-04-18 19:31)