SSブログ

古いカレンダーとこれからの僕ら [浮かんでは消える]

昔のカレンダーって当時の日付を正確に示してくれる。当たり前の話。

それ以外には何に使えるかな。日付に関してはもう未来には使えない。じゃ、裏紙にでもしようか。そんな価値しかないのかな。カレンダーとしての役割は過ぎてしまえば終わりだよな。古くなったら基本的には使えない。たとえ未使用だって使えない。「昔は正確に日付を示す価値があったけれども、今は到底使えない」ってことでしょ。

最近考える。「昔はこうだった。あーだった。」と世間でも仲間内でも言っている。世の犯罪がおかしくなったのは、「昔はあった共同体意識がなくなったからだ」とか、「人と人との繋がりがどうのこうの」とか。それは確かにそうなんだと思う。だから一理あるんだと思う。でも、僕には最近その話は「一理しかない」とも思えるのだ。

何でって?

だって、人は「昔」じゃなくてこれから「」を生きるんでしょ。昔よりも良き社会を目指して、いろいろ考えて創って試してみて進まなくちゃいけないじゃないか。過去に戻ることが安定・平和なのかって言ったらそうじゃないでしょ。まさか戦争時代に戻ることを良しとすることはできないし。「昔」を押し付けすぎようとして若者がかえって反発しているって側面もあるんじゃないの?確かに昔に比べればモノあふれて、食料にも事欠かなくなった。でも、だから堕落して、惰弱な若者が出来上がるのだって言われたら、その時代に生まれてきてしまったんだもの、そんなこと言ったってダメじゃない。昔の人は「食べられない」っていう危機感で育ってきたのだと思う。そして事実、社会を「食べられるように変革した」わけ。そういう意味では飢えへの危機感を克服したとも言えるんだろう。じゃ、これからの時代を生きる人はどうする?「こんな殺伐とした社会じゃだめだ」と言うのなら、どうしたら良いか。何が足りないのか。そういう危機感、いや、解決への方途を自ら探ることは必要だと思う。

昔は食料とか利便性の高い商品などの獲得という「モノ(物)相手」の目標があった。でも、これからは「モノ相手」だけじゃなくて「心的充足を求める」という「見えない何か」を追い求めることになるんじゃないだろうか。これに若者は飢えているんじゃないだろうか。この「見えない何か」を誠実に提示できない大人が若者に何を言ってもイマイチ説得力に欠ける気がしてならない。そんな時に「昔はあーで、こーで」は古い。新鮮さと時代対応を欠く発想・組織・思想は決定的な所でこれからの人に受け入れられないように感じる。特に既存の組織維持のために「古さ」を押し付けるのはよろしくない。人間は原則には従えても「いびつさ・違和感」には結局ついていくことはできない。もっと鋭くて、敏感で、日本を揺るがすような、世界を揺るがすような、若者をワクワクさせる価値観はないだろうか。

人は考えることを何世代に亘って長い時間積み重ねてきた。その中からいつまでも使えそうな価値観を現代に選りすぐって残してきたんだと思う。人を殺すなとか、盗るなとか、今ではやっと多くの人にとって当たり前になった価値観だけど、戦国時代に人殺しはいけないなんて言ったって、こっちが殺されるだけだった。

僕は時々考える。500年後にはどんな価値観が人々にとって当たり前になっているだろうかと。

で、その時に「元々それを言い出したのは、やり始めたのは、21世紀初頭の僕らなんだ」ってことになれば何かすごいと思うんだ。それは「古いカレンダー」を使うことじゃ出来ないでしょ。そういうのを皆で考えようよ。

そういう「一歩」を考えて、踏み出して、実行して、それからだな、死ぬのは。

うん。やっぱり僕はそういう道を征きたいんだな。


nice!(2)  コメント(4)  トラックバック(0) 
共通テーマ:日記・雑感

nice! 2

コメント 4

銀鏡反応

たしかに、世がおかしくなった理由について、「共同体意識がなくなったからどうのこうの」「人と人との絆がなんたらかんたら」など、よくよく聞いてみればみなありきたりでしかなく、しかもこれらはあくまで「一理」でしかないわけで、根本的な本当の原因については誰も正確に答えることは出来ないですよね。
いまの若者は「自分探し」と称して(でも、自分というのはあくまで、自分自身の中にしかないじゃないか!だから、自分探しなんてやっても無駄だ)心的充足を求めてさまよっている。問題はその心的充足を生み出す大いなる価値観、生命哲学をどのようにして見いだすかだと思います。

東洋の伝統的な哲学・宗教の中に秘められた哲理に、ひょっとしたら、その答えはあるのかもしれませんが・・・。
by 銀鏡反応 (2007-02-17 16:04) 

参明学士/PlaAri

★銀鏡反応さん、人間自身が何に飢えているのかが見えなくなって来ているのだと思うんです。それは「今まで」だって見えてはいなかったはずです。でも基本的ニーズとしての「モノ」の収集、確保が具体的目標だった時代はそれでも何とか「それを当てにして」走ってこれました。
ですが、いまや「モノ」は満たされつつある社会です。いや、逆説的な言い方をすると「モノ」はいくら集めても「足りない」ものでもあるのでしょう。そしてそれに(無意識か意識的かは別にして)気付いた新人類が生きる指標として為すべきことを見出せずにいるというのが現代の悩みなのではないでしょうか。もしかすると昔と比べて「心」を失ったというよりも、「昔は考えもしなかった悩み」が具現化している姿とも言えるのかもしれません。実は人間がごまかし続けて避けてきた課題から逃げられなくなったとも言えないでしょうか。人間とは何か。自己とは、自我とは、生きるとは、死ぬとは。昔の人はそんなことを考えて走ることは少なかったのかもしれませんし、実際に時間をかけてはこなかった。そして経済最優先の社会は一時「そんな真実」から目を背けるのに十分な快楽を提供してきたはずです。
ですが、人間は本来「先を見通せる生き物」です。衣食足りた生活の後に「何が待っているのか」を考えるようになってしまったのは理の当然であり、それに応える思考と言うか、思想と言うか、そういうものが「手元に無いこと」を憂えているのが現代でありましょう。

翻って哲学界・思想界・宗教界も「利害の戦い」を顕現させており、悩める人が求める熱意に冷や水を浴びせているのも由々しき問題と言えましょう。その意味でも今後は洗練された価値観・思考様式を創出する事が求められますし、それは銀鏡反応さんの仰る「東洋の伝統的哲学・宗教」をベースにしたものでも力を発揮する可能性はあると思います。つまりは「人間」という存在の本質を忽せにしない思想を土壌にしながら、それを現代的課題に展開して果敢に取り組んでいくというアクティブさが必要と言うことではないでしょうか。東洋の思想はともすれば山にこもったり、寺の修行に埋没したりするイメージも付きまといますが、それは人類が抱える具体的課題に何らの応えも与えることのできないものであると私としては思います。本来東洋の叡智はもっと人間そのものへの問いを持ったものでしょうし、集団を組んで暮らす大衆に対して無価値になろうはずもないと感じます。ですが、伝統的思想を現代に繁栄させるには、古めかしい言葉や体制のままではダメで、その思想の持つ「本質」を柔軟に捉え、そして現代的課題にダイナミックにイノベーションされたものでなくてはいけないと思うのです。それでこそ東洋的思想は輝きを放つのではないでしょうか。

一方で、人間の思想・思考がどこから来るのかと唯物的に考える側からは「脳科学」のアプローチがあったのも自然なことです。事実、この分野の発展は目を瞠るほどであります。まだ、それがどのように個性を決定して行くのかは全くわからない状況ではありますが、帰納的アプローチの発展はしばらく止まることはないでしょう。そうした学問が進んだときに現代的人間の課題が解決されるかどうか、それはまた別問題なのですけれどね。

脳科学まで言及すると果てしなく長文になりそうなので、それはまた別の機会にでも論及できればと思います。

長文、失礼致しました…。
by 参明学士/PlaAri (2007-02-18 19:38) 

サファイヤ

明士さんらしいテーマですね。

昔の価値観を押し付けても、理解できないですよ。事実や経験を伝えることは、意味があるでしょうが、昔はこうだったんだから・・・と押し付けられても、「今はちがうでしょ?」と実感もできないし、反発もされるでしょう。
さらに、現在を作って来たのは、先人たちなんです。過去の流れの中に現在がある。責任はむしろ先に生まれてきた者にあるんじゃないでしょうか?

物があふれる時代。お金さえあれば体外のものは手に入れられる。人間の欲求は、もう、物では満たされなくなってしまったんでしょうね。では、何で満たすのかというところに来ているのかな。しかし、物を作り出したのも、先人たちなんですよね。
この矛盾。

人との対話が希薄になってしまいました。実際、私もそのほうが楽だと感じますけど、最小限、世の中との接点、触手は残しておきたいです。

昔の人たちの方が(どの程度の昔というのもありますが)、戦争を経験している分、生きること、死ぬことを目の当たりにして来ているので、今より実感し考えていたとと思います。
by サファイヤ (2007-02-20 23:23) 

参明学士/PlaAri

★サァファイアさん、やはり「実感もできない」ことを説くのは時代にそぐわないものである可能性があるんですよね。過去の価値観には見るべきものも確かにあるのですが、現代がストレートにそれを必要としているかと言えば、「今ひとつパンチ力に欠ける」のが現状でしょう。むしろ、過去の良き価値観ならば現代風にアレンジをするなり、改良するなり、付け加えるなりしながら、これから先を生きる人間の指標になるような鋭さを持たねばならないはずです。一度使い古した価値観が使えなくなったから社会が荒れているとも言えなくもないでしょうから。それはサァファイアさんが仰っている「責任はむしろ先に生まれてきた者」にあるということと接続するのだと感じます。

人間と言う「主体」が外的要因に随分と揺さぶられる時代になってきました。「あの人がどうの、この有名人がどうの、その高級品がどうの…」と隣の家の財産でも数えるほどの低劣さです。そうやって「自己」を見つめる怖さから目を背け続けていくのでしょうかね。
by 参明学士/PlaAri (2007-02-22 18:19) 

コメントを書く

お名前:[必須]
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

トラックバック 0

SUKIDA!お知らせ ブログトップ

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。