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「正しさ」を決めるのは何なのか [思索の散歩道]

地球が楕円形であるということは「正しい」
現在So-net blogがβ版であるということは「正しい」

困っている人を助けるということは「正しい」

戦争は常に「正しくない」


  • 正しさの区分を明確にする。

上の4つの文は「正しさ」の違いについて書いたものである。
まず上の2文だが、63億人の人間がどのように考えても「地球が楕円形である事実」は変えられない。すなわち地球が楕円形であることは正しいと言える。現在のところSo-net blogがβ版である事実は我々がどう思うとしても「変わらない」。β版であることは正しいと言えよう。この正しさに「善悪」があるかどうか。この場合、善悪の判断は必要ないと思われる。そういう価値判断の対象にならない「正しさ」と言ってよいだろう。「正しさ」を考える上で、2種類の異なった使い方があることを明確にしておくことが第一歩であろう。

では下の文の正しさはどうだろう。
困っている人を助けることは正しいのか。「情けをかけることは人のためにならない
」という考え方がある。それに従えば助けることは正しくないということになる。反対に「そんなことなど、どうでもよいから助けて欲しいのだ」と思う人を助ければ正しいということにもなろう。助けたことで見返りを求めたならその助けは正しいのか。逆に無私の心で助けるからこそ正しいのか。また、犯罪者を助けたらそれは正しいのか。犯罪者に助けられたら正しいと言えるだろうか。この問題はそうやすやすと答えが出そうにないと思うがどうであろう。
ただし、一つ言えそうなことは、この正しさは「人間と人間の間に成り立っている部類の正しさ」ではないかということだ。そして、私はこのような「正しさ」について考えることは「正しい」と言っておきたい。

  • 状況次第で変わる正しさは「本物の正しさ」なのか

仮にこれを読んでいるあなたがアフリカへ行って、飢えきっている子供を見て「情けをかけるのは人のためにならない」と言い切って平然としていることが出来るだろうか。路上で友人が倒れた時は介抱するが、アカの他人が倒れたら無視して通り過ぎるのか。あなたは「正しい人」なのか。
これを見比べて、もしあなたの心が「痛むなら」、その痛みの根源はなんなのか。そしてそれは人によって「違うのか」。自分が正しいと思っている行為が、実は「状況に左右されていると」知ってしまったら、あなたはどうするのか。テレビを見れば、地球の裏側で飢えに苦しんでいる子供達を見ながら、おいしい食事をしている我々。あのテレビの向こうの世界も現実であることを知りながら、浪費している私達。自分らしく生きているから正しい生き方なんだと胸を張って、飢えた子供達の前で
言えるのか。
あなたは法律によって保証された「死刑執行人」になれるだろうか。我々はその業務を「他人に任せている」のだ。今の日本にいるということは、人に人を殺させるシステムの中にいるということは知っておいてよい。死刑に賛成なら、あなたは他人任せにせず、その死刑のスイッチを押せるだろうか。人の「生き死に」を決定するそのスイッチを押せるのか。その正当性を認めているのはただ人間が作っただけの法律だけだ。ましてや裁判の判決が誤っていたらどうするのか。それ以上の保証などどこにもない。これらは決して極論ではない。現実である。法律に従えば正しいとも言えるだろう。だが、あなたの選択は「正しかったのか」と問われれば…。

「本物の正しさ」を求める痛みはそこにある。いや、まずは痛まなくても良い。考えてほしいのだ。「本物の正しさなどありえない」と、あきらめるのだけは避けなくてはならない。それ以上の進歩が全く期待できないからだ。

  • 座標軸によって移り変わる「正しさ」と、変わらない「正しさ」について

人間の考えていることが変化すれば、当然の如くその人が考える価値(正しさ)も変容するだろう。時代が変わるというのは一種の錯覚に近いもので、時代が変わるというのは具体的には「人間の世代が変わる」ということであろう。
各人が持っている「正しさ」の感覚は状況によって変質してしまうという不安定さを露呈する。正しさの感覚をあくまで主観的なものに位置付けするとすれば、各人の欲望の追認を避けることは出来なくなる。世界中を見渡してみても、倫理的に動いている人間ばかりではないのだから(もし、そうだったら戦争など起きるはずがない)、正しさの全てを各人の判断に任せきるのは全ての人間が安全に社会を生きていくために妥当ではないと思うのだ。
食べ物がうまいとかまずいとか、絵が美しいとかそうでないとか、Sony製品がいいとか悪いとか、トヨタよりホンダがいいとか悪いとか、そういった価値判断は永遠に「各人に任せて構わない」はずである。これを否定すれば残るのは戦争か独裁かだけだ。こうした自由が確保されない社会は全く正しくないと言える。
一方で各人が持つ座標軸の移動によって「人間を殺すことが許されることはあるのか」ということは問わねばならない。その判断は本当に各人に任せてよいのか?と。今、私が思索するところのものは、「各人の座標軸」という天秤にかけられた「本質的で重要な正しさ」を公(おおやけ)の元に取り出して、誰に対しても平等に与えられる「正しさ」に置き換えたいということなのである。戦争にかりそめの「正義」を与えてきたものは各国の座標軸ではなかったか。座標軸に揺さぶられる「正しさ」を肯定する立場からは、この忌まわしい戦争を終結させることは出来ないであろう。時として座標軸は戦争を肯定するからだ。そして事実そうであったように。十字軍の遠征も、同時多発テロも、イラク戦争も、各国民あるいは指導者の座標軸は戦争することに対して「正義」の判断を下したのである。
それを考える時、時代や文化や人間そのものが変わっても変化することがあってはならない「正しさ」を「生命の尊厳の確保」として候補に挙げられないだろうか。この「正しさ」だけは座標軸に揺さぶられるものであってはならないと思うのである。だからこうした「重要な正しさ」に関しては各人・各国の判断に委ねられることなく、世界共通の柱(思想・哲学・道徳・法etc.)として打ち立てられるべきものではないのかと感じるのである。人間の座標軸という「ある種の思推ゲーム」の影響力とは切り離されて存在すべき「基本的価値」ではないかと思うのである。

  • 人間の良心や正しさは「育て」なければならない

もともと善悪の両方を感じる心を備えているものが人間であろう。どちらか一方が本当で…というのは経験的に納得できない。あとは良心を積極的に引き出す(育てる)方法を考えなくてはならないということになろう。放っておいて良心や誠意が引き出せるとは思えない。ただ生きているだけでは、欲望に引きずられる可能性が高いからだ。それを抑制し、他人を思う心を醸成したのは、家庭での経験だったり、躾だったり、伝統だったりするものではなかったか。
そして家庭での濃密な時間を確保しがたい現代社会においては、そうしたことを学校なり社会なりが「教育」していくべきなのではないだろうか。教育の衰退は良心の衰退に他ならないように思う。いまだに人類にとって獲得できていない「正しさ」を教えることの難しさは充分承知である。だが、「痛む心」を備える人間だからこそ「正しさ」を考えるチャンスがあるのだ。
子供と考えてみると良い。どんな時に人間は嬉しくて温かい気持ちになるのか。自分が何かをして喜んでもらった時、掃除をして喜んでもらった時、話を聞いて一緒に泣いた時、相談事を親身になって聞いた時、他人の嬉しさを共に喜んだ時、道を聞かれて説明したら丁寧に御礼をされた時、交番に落し物を届けた時、スペースシャトルで人間が宇宙に行ったのを見た時、スポーツ選手が新記録を打ち立てたのを見た時、テレビで子供がうまくお使いをこなしたのを心配しながら見た時…。
人間は喜びをエネルギーに変えていける生き物だ。「正しさ」が具体的に何かがわからなくても、上に示したように「共に考えて、例を教えること」はできるはずである。良心は各人が共通して感じるところの目に見えない部分にこそあるのだろう。

  • もう一つの「正しさ」

『原因と結果の法則』という本が最近流行っている。日本人の悩みを汲み取っているということなのだろうか。このシリーズに関しては以前1巻2巻のレビュー記事を書いたのだが、改めて紹介しておきたい。

「原因」と「結果」の法則

「原因」と「結果」の法則

  • 作者: 坂本 貢一, ジェームズ・アレン
  • 出版社/メーカー: サンマーク出版
  • 発売日: 2005/03
  • メディア: 単行本

人間はどうしても「目に映るもの」への執着が深い。同時に見えないものを軽視することも多かったりする。哲学や宗教が占める領域は「目に見えない」部分である。そして人の心の作用も実は目に見えておらず、人間が他人と出会う理由や、日本に生まれてきた理由や、他人と相性が合わなかったり、合ったり、交通ルールを守っていても事故に巻き込まれたり、物事の運が良かったり、悪かったりするという「事実」をなんら理論付けられないままである。目に見えない要素は「あきらめる」という態度を取り続けているのが今の人類だ。仮にそういう事柄にも「原因と結果の法則」があるという考え方を取り入れたらどうなるか。

この本の著者ジェームズ・アレンは述べていることを、私なりに解釈すると、「宇宙はきれいな法則で成り立っている。心の持ちようが美しい人は美しい現実を引き寄せる。憎めばあなたにとって悪い現実が引き寄せられる。あなたは他人を直させることに熱心で、自分を直すことにはいたく消極的だ。地球にとって、人間にとって良い原因をあなたが作るべきである。この法則は神ではない。故に誰かの意志ではない。原因と結果の法則は、宇宙を、そしてあなたを貫いている」ということになろうか。ここでは「正しさ」の根拠をそうして法則においているのだ。これを私は支持しておきたい。哲学が人間に寄与できる可能性を見出せるからだ。『原因と結果の法則』が正確に世の中を書き現しているかどうかはわからない(証明できない)が、指し示す方向・考え方は「正しい」と思うのだ。もし、気になるようであれば、一度手にとってみるのも良いだろう。あなたの考え方のマイナスになることはないはずである。

 

以上、私が考える「正しさ」をものすごく大雑把に書いてみました。かなり端折った内容になりましたが、改めてこの問題の難しさに頭がくらくらしてくる気がします。私自身が思索段階であり、これは全然答えではありません。疑問の投げかけが多いのは、考えるきっかけにでもなってもらえればという気持ちです。長文をここまで読んでくださった皆様、ありがとうございます。多分blogを開設してから一番の文量です…。

 

最後までお付き合いくださってありがとうございます。皆さんとウインクで繋がれればと思います。

せーの! (^_-)-☆


※記事初出時に本文の語(情けは人のためならず)の意味するところを、本来私が意図することと取り違えた誤りがありました。お詫びして訂正いたします。

※4月9日、本文記事に一部追記をしました。


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アキオ

自分の中でも、定まった価値観ではない「正しい」という価値観。
想いにすれば、単純のようだけれど、記事にしようとすると、
ドコまで書けば誤解を受けないようにかけるか、わからない命題ですね。

オイラは、基本的に「最終よりどころは良心だ」と書きました。
いまでもそれは思います。
ただ、それは個人的な指標でしかない。
それでいいのか、、そのための民主主義だと言われればそのとおりですがねぇ。。
利害で動く事がはびこってる今、どうして良いやら、、

う~ん、、
by アキオ (2005-04-08 11:55) 

黄泉若宮

「情けは人の為ならず」の意味を履違へてゐますよ。(本質とは関係ありませんが。)
by 黄泉若宮 (2005-04-08 15:22) 

kyao

せっかくのお話に水を差すようで恐縮ですが、「情けは人のためならず」とは「人に情けを掛けることは、巡り巡って自分のためにもなる」と言うことを表した格言です。「情けを掛けることは、その人のためにはならないよ」という事ではありませんので、念のため。
閑話休題
私の旦那は身障者です。健常者と一緒に働いたり生活していくためには、さまざまなハンディキャップがあります。
ですが、旦那をはじめとするすべての身障者に対して、何でもかんでも手助けしようと言うのは大きな間違いです。自分で出来ることは自分にやらせる。助けを求められたときに初めて手を貸す。これが信条です。何から何まで手を貸してしまうのは、その人を甘やかせるだけで優しいことではありません。ましてや「身障者だから助けてあげなきゃ」は、健常者が持つエゴであり、正義ではありません。
こういう世の中ですから、正義のありどころというのは本当に分かりませんね。でも、まずは自分自身の正義を信じる。ここからすべては始まるように思います。万人にとっての正義はないかも知れませんが、間違いを指摘してもらうことで、より大きな正義に出来る気がします。
話が長くなりそうなので、最後に一言だけ。
「世の中すべてが狂っているなら、俺は、俺自身の正義を信じる」(ヒィロ・ユイ)
(^^ゞ
by kyao (2005-04-08 15:34) 

この記事には何度もくることを宣言して、今はひとつだけ。(仕事中・汗)
若さんの俳句にも何度も出入りしててこずりましたがここもですね☆

出だしの部分の 『そして、私はこのような「正しさ」について考えることは「正しい」と言っておきたい。』 が僕は好きです。
僕の脳の中では「…考えることは「価値がある」と言っておきたい…」と読み替えましたが、いかがですか?
by (2005-04-08 15:58) 

そしてもう一言。
BigLoveさんのところのコメントの最後。
「なんでもありか」といった一文。明士さん流の「冗談」と読みましたが・・・
by (2005-04-08 16:00) 

kiyo

英語で言うと”truth"と"justice"ですね。
個々の掘り下げはさておき、そう考えるとしっくりきませんか?
ぼくんとこの「すみません」も”I'm sorry."と"Excuse me."に分けて考えるとしっくりきます。あの記事書いてコメントのやりとりをしてから"Excuse me."の意の「すみません」が抵抗なくなりました。
ただ、ひとつの語に二つの違う次元の意がぶらさがっているのは日本語ばかりじゃないんですよね。”sympathy”も調べると面白いですよ。いつか記事にしてやろうとは思ってるんですけどねww
by kiyo (2005-04-08 19:03) 

りんたろ

良いは悪い、悪いは良い、綺麗は汚い、汚いは綺麗。国によって時代によって、判断基準は違います。地球は今楕円形だとしても、昔は太陽が地球のまわりをまわっていたのだし、1000年後に地球が楕円形と認識されているとは限りません。だから、今我々が正しいと思っていることが必ずしも正とは限らないでしょう。価値判断は人の脳で行われていて、人の脳は全能ではないのだから、余計なフィルターは取り払って、謙虚に
>共に考えて
共に育っていきましょう。
安易な風潮に流されることなく、真剣に「考える」ということが誠意であり、誠意=正しさ という気がします。他人への誠意、翻っては自分と宇宙への誠意というところでしょうか。 などと感じました。
by りんたろ (2005-04-08 21:14) 

参明学士/PlaAri

いきなり格言の意を取り違えてずっこけた記事ですが、その点深くお詫び申し上げます。私自身の短慮と思慮の浅さを恥じ、未来に活かす決意であります。まだまだ修行の身。良い勉強になったと思っています。ご指摘くださった若宮さん、kyaoさん、ありがとうございます。
それから、この記事自体に私が主張したい事柄が幾分か欠落しているようだったので、順次追記することに致します。

アキオさん、私は世の中にある多くの分野での「正しさの価値観」はそれぞれの人が思うこととして尊重されるべきだと考えています。私の主張の芯の部分はそうした「時代と共に変遷して構わない価値」と「変遷してはならない価値」をはっきりと線引きしようという意味になります。本文では意を尽くせていませんでしたので、追記いたします。

若宮さん、ご指摘ありがとうございます。

kyaoさん、ご指摘ありがとうございます。指摘がなければ今後も気付かないまま人生を送ったことでしょう。感謝しています。
ハンディキャップを背負う方達にどのように接するかということに関しては、「正しさ」の幅は限定的でなくても良いかもしれないなと思います。ですからkyaoさんのお考えも正しいと思いますし、そうではない意見も許容することができそうです。恐らくこの分野に関しては、人間の全てが同じ感覚でいなくてはいけないということにはならないと思うのです。「助ける」という行為の中身も障害の程度による「違い」が出ると思いますし、その場での状況判断とその場で的確な対処が強く求められるものなのではないかなと感じます。
>万人にとっての正義はないかも知れませんが…今、私がまさに主張しておきたいのはこの部分です。万人にとっての正義は本当にないのでしょうか?万人にとっての正義をどうやって「神」によらず人間の手に収めていくか。これが私が哲学をする上でのテーマです。この部分は追記しなくてはならないので、またその時にご意見を頂ければと思います。

スナさん、何度でもいらして下さいね。現状、記事の追記を予定しています。またそちらもご覧になってくださいね。スナさんが読み替えられた文章、私の意を尽くしていると思います^^。そういうことです。
BigLoveさんのところへのコメントですが、昔に私が感じたことを思い出したということですので、もちろん今は違いますよ^^。ただ、ちょっとだけ「裏」の意味はあるんですけれどね…。

kiyoさん、そうです。truthとjusticeの違いです。「正しさ」を混同するケースがかなりありますので、まずはそこからほぐしていこうかなと…。
sympathy記事が出来たら拝見しに行きますね。語が持っている意味を正確に汲み取れるかどうかも、物事の理解には欠かせない要素なんですよね。

りんたろさん、仰るような判断基準が確かに存在しますよね。これは記事に追記しなくてはいけないのですが、実は私の考えはこの各人に委ねられた「正しさの判断基準」を、皆がそう思える「正しさ」に「神の力を借りず」取り戻していこうとすることなんです。人間が考える多くのことに関しては「各人の考えを最大限に尊重する」ことが大切だと思います。が、しかし、「各人で考えが違ってはいけないものがあるのではないか」ということに思考を向けています。それをもう少し具体的に追記していこうと思いますので、またご意見を頂けたら幸いです。
>真剣に「考える」ということが誠意であり、誠意=正しさ という気がします…なるほど、このことは思索の中に入れさせていただきます。深いです。
by 参明学士/PlaAri (2005-04-08 23:33) 

ひろっぴ

自分が幸福になること。そのための行動や思考、それが自分にとっての「正しさ」なのだろうと思います。何を持って幸福と感じるか・・・それが問題なのかと
by ひろっぴ (2005-04-09 00:41) 

アキオ

情けをかけても、他人のタメになるとは限らない。

ひっくりかえせば、、、

どちらの意味でも、、ヒトに恩着せる位なら助けなくてイイよ、、ってことになるのでは、、と思ってタリするアキオでした。。
by アキオ (2005-04-09 14:27) 

参明学士/PlaAri

ひろっぴさん、そうですね。仰るような価値観は相対主義ということになるかと思います。世の中の大部分(ほとんど)の事柄に関しては相対的なものの見方で構わないと思うのですが、幸福を受けるための大前提である「生命の尊厳」だけは人類共通の価値観として高めていくべきではないのかなぁと、考えています。

アキオさん、「助ける」という行為の正しさを決めることは簡単には出来ないですよね。やはり、人助けに関しては「状況を勘案し、価値があるかどうかを悩みながら、判断をその都度下していく」ということが、「正しさ」への近からずとも遠からずという答えを示しているのかもしれませんね。
by 参明学士/PlaAri (2005-04-10 19:55) 

BigLove

相対主義か否か、というところにこだわっておられるように感じますが、それは問題の本質になんら影響が無いように想います。
相対的な世界でも、どれか一本座標軸を共有すれば、絶対座標で空間を表せる。
どの座標軸を共有するのか、それはなぜなのか。そこを各々がきちんと感じ、掘り下げ、語ることに尽きると想います。そして、その能力を磨くことに。

生命の尊厳。これは、かなり根源的に大切なことといえるでしょう。共有する価値基準になり得る。
とはいえ、難しい局面はいくらでもあります。
たとえば薬が3人分、重症患者が5人。どうするか。
固定した正解など、あり得ない。その場で、何が大切かを問い、決断し、行動するしかない。その能力を磨くしかない・・・。

本物の正しさや、偽者の正しさがあるわけでもなく、正しさに種類があるわけでもない。わたしはそう捉えています。
正しいか、間違っているかを判断するとき、おのずとそこには基準がある。

「どんな基準で」判断しているのか、それは何を為すためなのか。それをただ掘り下げればよい。
「絶対的に正しい存在」を求めるから、複雑になるのではないでしょうか・・・。
by BigLove (2005-04-12 03:13) 

BigLove

とどのつまり、
「なにがより大切か」・・・この問いに尽きるのではないでしょうか。

そして、より大切にすべきものを誠実に大切にするこころを「良心」と呼ぶのでしょう。
by BigLove (2005-04-12 03:54) 

BigLove

あ、「地球が不動で、他の全天体が動いている」とみなしても、地球の赤道を膨らませる力が働く・・・というのは、あの言葉足らずな説明で判りましたでしょうか?
by BigLove (2005-04-12 04:01) 

参明学士/PlaAri

BigLoveさん、TB&コメントをありがとうございます。いつも勉強させて頂いています。感謝しております。
私は相対主義か否かにこだわっているということではありません。世の中の大半の価値は相対的で構わないと思うのですが、生命や各人の自由を維持するためのルールまでは相対的であってはならないというのが芯の部分です。相対主義は「客観的な本当」を認めない立場にあります。これは法治国家の構成員としては時として「不適格」な発想と受け取られるケースもあるでしょう。ルールや風習、人間関係等も鑑みず全ての選択を「自己決定」のみに委ねられるとしたら、殺伐とした社会が到来することは想像に難くありません。しかしながら、私は絶対主義の必要性を説いているわけではないことは、BigLoveさんにもお分かりになっているかと思います。

>どれか一本座標軸を共有すれば、

BigLoveさんは、「本質的に流動性を備えている座標軸」を人間が共有できるという「根拠」を何かお持ちでしょうか。それが仮に自然発生的に表出する「人間の良心」といったものに依拠するとした場合、これを現実の社会で具現化する手段としてはもはや「機能不全」であるということを感じないわけにはいきません。人間が人間らしくあるために、思推の中だけに理想を描くのではなく、この63億人の人間が住んでいる地球上に「意識的な」何らかの柱を立てなくてはならないと思うのです。ですから例えば「生命尊厳」の普遍的価値を人間が改めて「定義」するという作業を推奨しているのです。本文にそのうちに追加しようかと思っていることの一つに、「自由を確保するためのルール」の価値も挙げなくてはならないなと思っているところですが、ここでは避けます。

>各々がきちんと感じ、掘り下げ、語ることに尽きると想います。そして、その能力を磨くことに。

確かに仰るとおりです。先ほどの繰り返しになりますが、「きちんと感じる」根拠を明示できなくては教育にもなりませんし、哲学にもなりえません。掘り下げさせる「きっかけ」を与えることを大人は提供しなくてはならないわけです。それを各人の良心に任せきるとしたら人類がどれほど時間をかけても「座標軸の共有」という理想を遂げられそうにありません。人間は以前の人類が何を考えていたかを知ることが出来ます。「正しさ」や「真理」を求めて数々の哲学者・宗教者・その他の学者・庶民に至るまでの人間が洞察をし、今に生きる人はその「知」の遺産を受け継いでいけるのです。この「知」の遺産を使わない手はありません。正しさを掘り下げて考える上で格好の指標となるものです。
結局、座標軸をどこに据えるのかということになれば、それなりの見解を示さなくてならないということになるでしょう。「人間は本来自由だから何をしてもいいんだよ」という座標は平和を喚起しませんよね。今の世の中で正しさや良心を掘り下げていったら「同じ座標軸にたどり着いた」というようなことは現在のところ「空想」に近いです。やはり、国家、国民、人種、宗教、哲学性によって「生命の尊厳」のような重要な価値まで「相対化」されかねないと思います。元々、この「座標軸の共有」が達成されていれば法律は必要ないですし、ルールもなくても良い。ところが人間はそういう生き物でもないわけです。あえて言えば、「座標軸の共有」は叫ばねば獲得できないものでしょう。つまり、より能動的な動きを必要とするものだと思うのです。それはようするに私の主張するところの「柱」となんら変わるものではありませんよね。

>正しいか、間違っているかを判断するとき、おのずとそこには基準がある。

実はこの「正しさ」は種類の違う正しさを語っているということになります。正しいか間違えているかということと、事実としての「正しさ」とは異質な物なのです。BigLoveさんの仰るような基準が絡んでくるのは、全て「人間の思考が関わっている」場合です。人間の思考によって変質させることの出来ない「事実」をいう正しさとは混同できないわけです。例えば、私が昨日何を食べたかという事実は座標や基準によって揺さぶられることはありません。私が昨日何かを食べたという事実は「正しい」のです。この意味の「正しさ」は正義や悪といった類のものとは違います。座標というのはあくまでも「人間の思考内」の発想なのです。仮に人間の思考や分析が宇宙まで及んでいなかった時代を考える場合に、人間にはそういった座標そのものが存在しえませんから遠くの星の実在や、運行を認識することは不可能であったことでしょう。ヤギや魚やアリが、遠くに星があることを認識できるかといったら無理でしょう。それでも無関係に星は存在していますね。
パルメニデス曰く「あるものはあり、ないものはない。」人間が生まれる以前から地球があったという「事実」は「正しい」と認識します。座標というのは「考えようによってはそう捉えられる」という人間の思考分野のものですから、実在の本体を指し示すには機能しきれないものだと思います。思考で処理できないものを肯定することも恐らく不可能になってしまうことでしょう。

>たとえば薬が3人分、重症患者が5人。どうするか。

割合、私の答えは明快です。思考だけの判断では恐らく結論は右に左にいくことになりますね。生命の尊厳に価値基盤が置かれ、そこから何かを判断するならば、薬が3つしかないという状況こそ克服しなくてはならないということになります。足りないじゃ済まされない、なんとしても5つ用意する。これが3つをどう配分するかより高い「正しさ」ではないでしょうか。そして、本来そうした状況にならないように平素から手を打っておくこと。それが社会であるし、組織です。そうした手が打てるのは各個の良心の連帯であるのと同時に、組織そのものが持つルールによるものでしょう。今、私が着目しているのはこのルールに関するものです。「生命尊厳のためには断固として薬や医療機器を確保しておく必要がある。患者が急を要するときに速やかに対応しなくては命に関わるからだ」というのは、病院や施設の持っている当たり前の感覚であり、ルールです。こういった人間そのものに関係することがらを国家の間でも積極的に持てないかどうか。その辺を私は着目しているわけです。そうした揺ぎ無い指標を世界は今こそ必要としているのではないかということなのです。
戦争が起きるのは各国が絶対的な価値観を振りかざすからではなく、相対的な判断によって自己の正しさを決定しているからです。一見絶対的に見えている各国の価値観は全て「欠陥を含有している絶対さ」です。本質的な絶対は「どの国にも、どの人にも、どの場所にでも」理解されていくものでなくてはならないのですから、今回のイラク戦争もアメリカの相対的価値観による独善性が現出したという判断になります。何故なら、アメリカの正義を世界の国々は認めなかったからです。これでは「絶対」などとは表現できません。人類はまだまだ国際関係の中で「絶対」という価値を手に出来ていないということなのです。
その「絶対」の探求の中で、BigLoveさんの仰るような個々人の座標軸を磨き、他者・他国とすり合わせ、対話の中で人間同士の約束を一定の形にする。この形にするという作業を疎かにして世界平和はありえないのではないかと思います。

>より大切にすべきものを誠実に大切にするこころを「良心」と呼ぶのでしょう。

りんたろさんのコメントの中にも同様のことが書いてありました。私も同感する部分でもあります。私としては記事に書いたとおり「良心は育てるもの」だと思っています。

…。読み返すとながーくなってしまいました。あ、それから、座標と基準次第でものの「見え方は変化する」ということは理解できていますよ。そしてそれらがその判断の上での「正しさ」を持っていることも分かっているつもりです。
私は具体的に平和を構築していくための人類の知恵について考えています。普遍的価値観の存在をあきらめずに追及していこうと思っています。もし意見の異なる人がいれば、対話によってのみそれらは磨かれていくものだと認識しています。武力を用いずして…。
by 参明学士/PlaAri (2005-04-12 12:43) 

BigLove

熱のこもった素晴らしいメッセージをありがとうございます。
「普遍的価値観」を「共有できる座標軸」と言い換えれば、参明学士さんと私は、ほぼ同じことを論じていることになろうかと想います。

さて。「神への奉仕は、自分個人の命に優先する」と信じている人に、「生命の尊重を最優先するのが絶対正しい」ともし論駁したなら。対立が深まりそうです。わたしはそれを、所詮「大切にしたいものは何なのか」に照らしてしか語れない正しさを、絶対視して語るからだと捉えます。
「より根源的に大切にしたいものはこれだ」と、当事者間での共感・共有に至れば、たとえ普遍に至らなくとも、対立は解決可能でしょうね。
普遍性の基礎となるのは、同じ人間としての素直な感性・感覚(感情とは違います)。そこに根ざした「知」が重要だと考えています。平和の礎となるのも、個々の内なる平和だと、私は想っています。

平和を乱し、感性を不健全にし、共感を妨げるのは「奪われるのでは」という不安。
すべてを奪われたユダヤ人強制収容所の中でさえ、「夜と霧」に描かれたように、ひとは誇り高く生きることが出来る。持ち物も行動も、全て制約されてもなお、誇り高い「在り方」は厳然と在る。この事実は、たとえ利害が入り組んでいようと、かならず健全な解決策を見出すことはできるということを、教えてくれているように想います。

そして。
災害の現場で、「3人しか救えないなんて間違ってる!」と叫ぶ暇があったら、5人の中から3人救うことに全力を尽くすほうがいい。もちろんそんな事態がなるべく起こらないように、システムを整備することは大切ですが。
「昨日ご飯を食べさせてもらっていない」と叫ぶおじいちゃんに、「いや、あんたボケてる」と闘うより、敬意をもって接し、おじいちゃんの能力を最大限活かしてもらえるよう勤めたほうがいい。
なにがより大切か。根源的に望むものはなんなのか。問い続けることが、良心を育てることになるのでしょうね。
by BigLove (2005-04-13 15:42) 

参明学士/PlaAri

BigLoveさん、いつも意義深いコメントを頂いてありがとうございます。このやりとりが記事自体の価値を高めてくれているようです。感謝でいっぱいです^^。
ここまでBigLoveさんとお話させていただく中でわかるのは、ほとんど同じことを考えているということでしょうか。

>「神への奉仕は、自分個人の命に優先する」と信じている人に、「生命の尊重を最優先するのが絶対正しい」ともし論駁したなら。対立が深まりそうです。

生命尊厳に限らず、「正しさの柱」は対話の中で構築するという考えでおります。ソクラテスがそうしたように「正しさ」を対話の中で確立し、それをやがて人間だけが可能である「普遍化」に持ち込んでいく作業ですね。これはルールや決まりごととして国際間で打ち立てる具体的な指標です。この「対話の拒否」がなければ、互いの神を尊重することも可能ではないかと思います。
カトリックの過去はどうあれ、先日亡くなったヨハネ・パウロ2世は異宗教間対話に挑戦した人物だったと聞いています。アメリカとイラクの対立は前の私のコメントでも書いたとおり、国家の相対的価値観によってもたらされたものであって、宗教対立などではなかったはずです。宗教の違いは国家の正義の建前として利用されただけでしょう。現状の世界を見渡せば、やはり誰しもがうなづける「正しさ」を具体的な形で築いてこなかった人類の責任であると思います。

>平和を乱し、感性を不健全にし、共感を妨げるのは「奪われるのでは」という不安。

私はこれこそ「教育の欠如」だと思っています。そして「教育の柱」の誤りだと感じます。何が正しさなのかを知れない小さな子供達に指し示すことの出来る指標を人類は普遍化してこなかった。それが生命の相対化を招き、対話の価値を減衰させ、大切なもののありかを見失わせる結果になったのだと思うのです。
ほとんどBigLoveさんの仰っていることと一緒かな??とも感じますが^^。

>災害の現場で、「3人しか救えないなんて間違ってる!」と叫ぶ暇があったら、5人の中から3人救うことに全力を尽くすほうがいい。

災害の現場であれば、上記のようなことを考えている暇はないはずです。3人救うと言っても一人一人を救出していかねばならないのですから、上記の仮定は実際には存在しないのではないでしょうか。人間の思推では認識論も含めて幾通りもの状況を脳内に作り出すことは可能ですが、思推が推測する現実と、眼前に巻き起こるカオス的事象である現実を見比べれば、「実際のありか」は2つの現実の真ん中より少し後者寄りに存在するのではないでしょうか。

>なにがより大切か。根源的に望むものはなんなのか。問い続けることが、良心を育てることになるのでしょうね。

その通りですね。そして人類の知恵を総動員してそれらを具体化する努力を続けること。国連も人間の知恵が出してきた一つのテーゼです。まだまだ国連自体が法則に耐えうるかどうかの試練を受けている段階です。こういった具体的な何かを人類で構築し続けることが、世界を安定に導くために必須の要件としての「正しさ」を備えているのでしょうね。
by 参明学士/PlaAri (2005-04-14 19:01) 

BigLove

>このやりとりが記事自体の価値を高めてくれているようです。
そうなるように、意を尽くしながら書いているつもりですので、うれしいです。
1点だけ。ルール化の弊害について書かせてください。参明学士さんは重々ご承知のこととは想うのですが・・・今、私が業務で日々出会っている件ですので。

>上記の仮定は実際には存在しないのではないでしょうか。
いえいえ。似た事例はたくさん見受けられます。
想定外の事態が起きたとき、教え込まれた規範が邪魔をして、生の現実をありのままに観ることができず、判断停止に陥って硬直したり、大切にすべきことを大切に出来なかったり・・・しがちなんです。
たとえば、事故現場でけが人二人、どちらを先に助ければいいか迷って硬直してるうちに、救急連絡が遅れた・・・。タイタニック号で、人がまだわずかしか乗っていない救命ボートを次々下ろしてしまった。薬品をかぶった人が、手近にあるシャワーでからだをまず洗えばいいのに、遠い事務所まで連絡に走ってきてしまった。決断を避けて、教え込まれた正しい手順をただ遂行したり、動けなくなって事態を悪化させてしまったり。
そうそう、ちょうど今回の脱線事故で、電車に乗り合わせた運転士2名が、乗客の救助をせず、乗務に向かった・・・と報道されていますね。
「定時運行」することが正しい!自分が電車を動かさなければ、膨大な人々が迷惑する・・・と、強く刷り込まれているから、自分が死にそうな目にあってさえも、職場に向かった。
英雄的行為ですね。ただ、2次衝突の防止策をとったり、目の前で苦しんでいる人々を救うことのほうが、電車の運休により迷惑をかけることよりも重要で大切だ・・・とは思い至らなかった。それでも、判断停止に陥ってなんにも行動できなくなるよりもずっとましですけれど・・・・・。
今回の事故を教訓に、たぶん事故電車同乗時の行動ルールが制定されるでしょう。似た事例がおきれば、今度はそれで対応できる。でも、新ルールの想定外の事態が起こったら、無力。そして、膨大になったルールは、得てして形骸化しがち。

なにが正しいのかを教え・しつけ・覚えこませることの弊害が、ここにある。
想定内の事態なら、それでなかなかうまく対応できることでしょう。
でも、環境は変わる。想定外の事態なんて、いつでも起こりうる。しかも、得てしてそういうときに限って、緊急で重要な決定を下さなきゃいけない。自動的にルーチンで処理できないですから・・・。
「こうするのが良い子です」としつけられて育ち、今、大人になって、環境の変化に対応できず苦しんでいる人が、なんと多いことか・・・。

なにが大切なのか、なぜ大切なのか、どういう基準に照らして正しいのか。
それを自分自身で問い、答えを見出す。
健全な判断力を磨く訓練が、とっても大切なのだと想うのです。
その「健全さ」というのも、いろんなとらえかたがありうるかもしれませんね。ただ、同じ人間という動物ですから、なにが健全かは、比較的共有しやすい・掘り下げやすい・合意に達しやすい、ものさしと言えそうです。
参明学士さん流に言えば”誰しもがうなづける「正しさ」”ということになるでしょうか。

ルールを定めることも重要。
そして、そのルールがどういう大切さを守る観点から決められたのかを伝えることがもっと重要。
さらに、より大切なものがなんなのかを、きちんと見極める判断力をそだてることが、根本的に重要。
端的にまとめると、こういうことになるでしょうか。
ISOのマネジメントシステムとからめた記事を http://tamura.cocolog-nifty.com/tdr/2005/04/_by_dstyledaily_1de7.html に書きました。読んでいただけるとうれしいです(^^)

>何が正しさなのかを知れない小さな子供達に指し示すことの出来る指標
むしろ、小さな子供達のほうが、なにが健全かをよく知っています。
子供から教わることは、実に多い。
わたしたち大人が、表層的なことを大切にしてしまい、本質を見失っていることに、しばしば気づかせてくれます。
子供達のその健全さを、たとえばコントロールドラマでゆがめないこと。それが、教育で一番大切なことのように、わたしは感じています。
そして大人は、より本質的な価値を探求・創造することを通して、経験を、見識と智恵に昇華させつづけることが大切なのでしょうね。
by BigLove (2005-05-04 10:52) 

参明学士/PlaAri

BigLoveさん、いつもありがとうございます。意を尽くそうとして下さる貴兄に対して、意を尽くせない私の情けなさったらありませんね…(涙)
言葉足らずの中ですが、今回も思うことをコメントさせていただきます。

>たとえば、事故現場でけが人二人~

恐らくBigLoveさんが認識されているルールと私の主張するルール・指標は同一のものではないと思われます。仰られているようなルールの形は「目的に対する手段」に該当するものだと考えられます。ルールとしては「ミクロ」に該当するでしょう。人間が持っている手段は実に多彩です。時代・各国・各地域・各民族・各風習・各人を通して、相対的に高め続けていくべきものだと思います。これらをルール化し、統一を図ることにはまったく賛成できませんし、必要もないことだと思います。ルールは形骸化するから不要なのではなく、状況に対応し磨き上げ続ける宿命を持つのだと認識します。
ですが、人間が作り出した約束事としてのルールの価値は認めなくてはなりません。そしてこれは消極的な拘束を強いることになります。例えば、人は自由に行き先を決められます。しかし、赤信号で進むように交通ルールを無視してはその「自由の権利」を達成することはできません。交通ルールは圧倒的大多数の人と人との約束事として成立している「正しさ」なのです。
翻って私の主張するものは「大局観」に該当するものです。それは以下に示していきます。

>なにが正しいのか~

BigLoveさんの仰られているルールを「ミクロ」と捉えると、私のそれは「マクロ」ということになりましょう。厳密に言えばルールというよりは「柱」というか「精神」というかそういうニュアンスのものです。
私は環境や状況に揺さぶられない価値の存在を認識することの必要性を主張しているのです。目的に対する手段や方策は環境や状況次第で変容させて構わないと思います。そしてそうあるべきでしょう。
例えば、「生命の価値」のような目的そのものは時代・環境・状況によって変容されるものとは考えません。その認識の上に立ってこそ手段が輝いてくる。マザーテレサのように孤児院を経営する、道路のゴミを拾ってみる、被災地へのボランティア活動を試みてみる、国連をさらに機能的に高めてみる、献血に行ってみる、ノーベル賞受賞者のように木を植えてみる等の多彩な行動を引き出す素地を人類に構築しようということなんです。具体的行動はミクロ、大局観がマクロということであります。大局観というのは厳密に言ってルールと言うことにはならない。「人としてのあり方」を提示するものとも言えるでしょう。

>なにが大切なのか、なぜ大切なのか、どういう基準に照らして正しいのか~

恐らくBigLoveさんと、私とのやり取りの中でのキーワードはこの辺にあるはずです。BigLoveさんは「個々が突き詰めて思考するなかで、共有できる事項を求め繋いでいく」ということを仰っているものと推察します。そしてその論理の根拠は「同じ人間だから期待できる」ということになるでしょう。
私は全てをそれに依拠しきらない形を考えています。その理由としては「人間は先人の遺産を認識することが出来る、コミュニティを図ることが出来る、対話をすることができる、組織を作ることができる、相互理解のための努力をすることができる、約束事を交わすことができる」唯一の生物だからだということです。
例えば「生命が大切」という考え方は大雑把に見ても、すでに2000年以上も受け継いできた思考です。仮に人間だから同意事項が期待できるということを前提にして考えると、こうした遺産は同意事項として世界に掲げるべきもの(柱としての役割を持たせる)と言うこともできるはずです。こうした連綿と続く物事を後世にまで維持していける能力を持つものもやはり「人間」です。
生まれてくるその都度「0」から思考させるのでは、歴史に学ぶスタンスとは言えないですし教育の意味するところも薄れてしまいます。ですから、私は演繹的に「人類が長年かけて構築してきた同意事項である揺るがない正しさ」を教え、帰納的に「何故そういう風に至ったのかを掘り下げて考えること」を並行して子供には伝えていくべきものだと考えるのです。

>ルールを定めることも重要~

ほぼ全面的に同意できると思います。リンク先も拝見しにうかがいますね。付け加えるとすれば、そのルールを守ることによってどのような利益が享受されるのかということを認識する必要はあるでしょう。その認識の過程において、最大限の利益を引き出す方法が他にあるのなら、またルールを改築する素地にもなるわけですから。

>大人は、より本質的な価値を探求・創造することを通して、経験を、見識と智恵に昇華させつづけることが大切なのでしょうね。

その通りだと思います。本質的な価値を追求する姿勢そのものも評価する必要があるのだと思いますね。考えること自体の価値。そういうのも、もっと積極的に評価される時代であって欲しいなぁと感じますね^^
by 参明学士/PlaAri (2005-05-04 23:34) 

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