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原因と結果の法則2 [思索の散歩道]

本書は前回にも書評した本の続編である。前作が思っていた以上に好評だったからか本作の登場となったのであろう。本書の帯には『前作「AS A MAN THINKS」(原因と結果の法則)よりもさらに深く、より実践的に、人生の真実を綴った』とある。裏表紙には『この宇宙は「思い」から生長しました。物質は、物質化された思いにほかなりません。』とも述べられている。

本質的には前作と大差ないが具体的実践に触れている

さて本書の内容だが、前作とその本質は変わりないように感じる。この「原因と結果の法則」が我々の生活にどう具体的にのしかかっているのかということを具体例を引き説明しており、明示的で理解しやすい。ソニーの創立者井深大氏が言っていたことを思い出す。「いい製品を作るだけではだめだ。それを人に知らしめることこそ重要なのだ(要旨)」と。アレンの哲学も哲学としての完成度自体は高いと思うのだが、その哲学を多くの人々がわかりやすいように説明する必要もあるのだと感じる。その意味で彼が本書で示している具体例は、彼の哲学を我々の生活に取り入れる上で重要な指標となるものである。多くの哲学のようにただ難しい理論だけ説明されても「そうなんだ」と思われるだけで、実際の哲学の役割が果たせてはいないケースが多い。
『より「実践的」に』と帯に示されているが、確かに実生活に投影しやすいように工夫された内容と言えるのではないだろうか。 

「原因と結果の法則」を取り入れる手法とは?

「けがれた身勝手な魂は、不運と不幸せをつねに自分に引き寄せ、清らかで情け深い魂は、幸運と幸せをつねに自分に引き寄せています。全ての魂が、それ自身と同種のものを引き寄せ、それと相反したものが引き寄せられてくることは絶対にありません。」
 要するに心の作用(精神)が外界(環境)を決定付けるという理論である。「キレイゴト言うなよ」、「正直者はバカをみる」などとわが国では言われるが、アレンに言わせると本当の法則は「キレイゴト」の方であるし、「正直者が報われる」のは確実である、ということになるだろう。人間が構築した「社会システム」の中においては「キレイゴト」や「正直者」が一時的に報われないこともあるだろうが、その根底を支えている「宇宙の法則」に照らせばその「社会システム自体」が「原因と結果の法則」により崩壊していくと見なければならないということではないだろうか。ところで「心」をきれいにしなさいとアレンは言うが、その方法はどうなんだということも我々は知りたいところである。その方法とは「リラクゼーション」であると彼は説いている。
「誰にも、またいかなる騒音にも邪魔されることのない、自分だけの場所を見つけ、そこで毎日、静かな時間を過ごすようにすることです。そのための時間を、朝と昼と晩にそれぞれ15分ずつとれれば理想的です。その場所に入ったら、まず快適な姿勢をとり、つづいて、自分の心を、自分に不安をもたらしているものから遠ざけ、過去の幸せな出来事に集中して向けることです(中略)その良いことに意識を集中させることです。」
ここでリラクゼーション内容の全てを言い尽くすことはもちろんできないが、この手段だけで「良い心」を得ることが出来るかということに私は今のところ懐疑的である。法則の存在に対しては支持するが、法則に近づいていく手法に関してはより良いものが他にあるように思う。パンチ力不足といえばいいのだろうか。しかし、それ以上先を求めるとやはり哲学世界から信仰世界に入らざるを得ないのだろうか。彼自身も本書の中で「真の信仰に目覚めよ」と述べているが、この意味は宇宙には厳然と「原因と結果の法則」があるということを信じなさいという意味であろうと私は解釈している。

「原因と結果の法則」をマクロ的に捉える

「国家的な出来事は、国民の思考エネルギーが外部に現れたものに他ならないのです。戦争、疫病、飢饉といったものは、誤って導かれた国民全体の思考エネルギーの集合点です。それらは、破壊が「法則」の代理人として足を踏み入れる、ネガティブな国家的思考エネルギーの集合点に他ならないのです。よって、戦争を特定の人物、あるいは特定のグループの責任だとする理論は、はなはだしく馬鹿げています。戦争は、国家的な身勝手さの最悪の現れにほかならないのです。」
国策がどのように向かうかは日本に関して言えば我々が選挙で選んでいる人が国会で決めているわけであるが、その実は「国民性」がその舵をとっており、換言すれば「国民の持つ哲学・思想・信条・宗教」のエネルギーの集積点が「国家の現況」であると考えなさいということなのだろう。日本の大戦当時を考えるとあながち外れているとは思えない。天皇・軍部の責任は如何との議論があるが、国家神道で思想統制された国民全ての思考停止状態が戦争を長引かせて、国力の低下を招き、最終的な結果はご存知の通りとなった。これを我々後世の人間がどう捉えるかで未来は変わってくるのである。天皇制がいけなかった、明治憲法がいけなかった、軍部がいけなかった、外国のスタンスがいけなかった、という側面もあるだろう。しかしその全てを人間の外界に求めるのではなく、そうした当時の日本の姿を容認せざるを得なかった国民の精神の惰弱性にまで原因を求めるべきではないのだろうか。恐らく、そうした思考性を国民を持たなくてはいけないということをアレンは述べているのではないだろうかと思う。 

日本人全体に言えるが特に悲観主義者は一度読んでおくべき

様々なパラドックスに貫かれてしまっている社会を見渡す時、本書「原因と結果の法則」は己を見つめなおす絶好の機会になるかもしれない。この「己」の集積の結果が「現社会」であると仮に認識するならば、平素の暮らしや実践の中での自分の役割を再認識し、価値的な行動を身近な所から起こしていくきっかけともなろう。「THINK GLOBALLY ACT LOCALLY」の時代であると私は思っている。本書の内容を支持するかどうかは別として、精神が環境に及ぼす影響を説く理論として一読に値すると言えるのではないだろうか。


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コメント 2

kyao

果たして、参明学士さんが述べていることと同じであるかどうかは、はなはだ疑問ですが。
事象を結果でしか判断出来ないような人にとって、その結果を自分にとって「よいもの」と捉えるか「悪いもの」として認識するかによって、その人の世界観はまるで違ったものになってしまうということであると私は理解します。
たとえば、目の前の小石に躓いて転んだとします。「ついてない」「格好悪い」と考えるのが普通です。ですがこのとき、「自分が転んでみせたことで、この後、この道を歩いてくる人は転ばなくて済むかも知れない。私の経験は他の人にとっての忠告になったかも知れない」と思えば、「自分は良いことをしている」と思えるでしょう。
大げさではありますが、この思いこそが、自分にとって「世界を革命する力」になりうるのです。参明学士さんが仰っている「精神が環境に及ぼす影響を説く理論」とは、このことではないでしょうか。

ただ、私個人は、すべての事象が原因と結果によって語られるとは考えておりません。大切なことは原因から結果に至る、その過程ではないかと信じています。たとえ自分が期待している結果が得られなくとも、それまでに成された努力は何物にも替え難い、大切なものだと思っています。でなければ、恋愛など出来ません(笑)。
恋愛のみならず、人間のその思考・行動こそが尊いと思います。それらが人間を成長させてくれるものと私は信じています。
by kyao (2005-03-16 14:15) 

参明学士/PlaAri

kyaoさん、いつも示唆深いコメントを頂きありがとうございます。

>結果を自分にとって「よいもの」と捉えるか「悪いもの」として認識するかによって、その人の世界観はまるで違ったものになってしまうということであると私は理解します。

端的に表現すればkyaoさんの仰る内容で私の意を尽くしていると思います。加えて容喙させて頂くならば、「ある事象」を「どう捉えるか」という認識の傾向性こそ、より本質的な「原因」であると考えます。私見になりますが、アレンの哲学の深遠さは恐らくはそこにあります。事象に対してどう思うかということにのみ着眼点が置かれていては、1世紀を超えて読まれる哲学には成長しなかったであろうと考えます。
kyaoさんの例をお借りすれば、「小石に躓いてどう思うか」ということに原因を置かれているように拝察しますが、そこから一歩踏み込んで、「躓いたことは後から躓く人のためになったのだ」とある人が「思うため」には、平素からそう思えるような精神を構築しておかねばならないということなのです。
具体的に言うと、ヤ××が転んだとします。普段から法のギリギリを亘ってくることをよしとしているような心の持ち主ですから、基本的には「後から来る人のために躓いた」という思いにはほとんど至らないはずです。対して、牧師、お坊さんが転んだとします。その時には「後から来た人のために躓いた」と思う可能性は十分にあるでしょう。これが示しているのは、ある事象に対して「偶発的に思う内容」はより本質的な精神に起因するのだということです。(もちろんヤ××にも心根の良い人はいるでしょうし、牧師さんがいい人とは限りませんけれど。あくまで一例としてお考え下さい。)
そしてアレンが改善を呼びかけているのは、その「本質的な精神」のことでありましょう。ですから事象の過程をどう認識するか、相手の言葉をどう感じるか等を左右しているところのもの、深層心理学者ユングの言葉を借りれば、「意識の下に厳然と存在する無意識」の改善こそ、アレンの呼びかけるところのものであると私は捉えています。この無意識の変革の拡大は、やがてkyaoさんの仰られている「世界を革命する力」になりうると考えます。
アレンの述べている「原因と結果の法則」は換言すれば「人間精神と結果の法則」とも呼べるものかと思います。何か複雑な語り口になってしまったかもしれませんが、簡便に言うならば、「清らかな思考をする人」を拡大していきたいとアレンは思ったのかもしれません。

>人間のその思考・行動こそが尊いと思います。

仰る通りですね。そして思考を左右しているものを肯定し改善しようとするアレンと、認識できない以上は可視的な事象でのみ判断しようとする人との間断なき戦いなのかもしれませんね。私としては原因から結果にいたる過程をも構築しているのは、「無意識」に代表されるような精神分野ではないかと考えています。過程をどう「捉えるか」という命題に当たったときに、やはり本質的精神の問題が浮上してくると思うのです。
それにしても哲学って、なにやら頭が痛くなりますね^^。これが「答えだ」というものもないでしょうし…。
by 参明学士/PlaAri (2005-03-16 15:19) 

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