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善意の限界 [思索の散歩道]

人間は恐怖によってルールに従うのか。

人間は他者の評価を恐れてルールに従うのか。

下の写真を見ていただきたい。

これは飛行機内のトイレにあった警告表示だ。これを見て考えたこと。それは「恐らくこれを見てそれでもタバコを吸おうとする人間はほとんどいないだろうな」ということ。その理由として、

  1. このルールに違反した人はあっという間に「特定」されてしまい、逃げも隠れも出来ないと言うこと。
  2. 仮にたばこを吸って近くの空港に降りるような事態になれば、甚大な損害賠償請求が待ち受けていること。
  3. この警告を無視したせいで飛行機が墜落しようものなら、自分の命すらもなくなるという恐怖があること。

以上のようなことがざっと考えられる。これらの理由ははっきり言ってルールを守る人間の条件として挙げるには、あまりにも「残念」であると言わざるを得ない。人間が作ったルールは場所がどうあれ、「遵守すべきもの」として扱われる。それが空の上だろうが、地下室だろうが。根本的に考えて、善意、良心、良識でタバコを我慢しているのではないのだ。ただ、「怖い」がために「吸えない」のである。もちろん、地上でもルールをわきまえて吸っている人はこの類ではないのは言うまでもないことである。
本質的に言えば、地上で歩きタバコはダメだと言っているのと、飛行機内でのタバコ禁止とは、何ら差異はないのだ。でも飛行機内での禁煙がほぼ100%守られているのは、上記のような「恐怖」を認識するからであろう。翻って、地上での禁煙を守らないのは自分以外の皆もやっているからと、「タカをくくっているから」ということになるはずだ。地上での歩きタバコが子供の顔面を直撃する可能性…。決して少なくはあるまい。数に埋もれてルールを破るという、あまりにも自律心が崩壊している現代。「恐怖」によってしか大勢の人を律することが出来なくなってしまっている時代。

どのような場所、時、雰囲気であれ、自らをよく律し、周囲に配慮していく自主性を人間に期待することは許されないものなのか。
「善意の限界」、そのようなことを考えたくはない。だが、人間と言うものを思索のする時の一部として、どうしても排除できない大問題なのかもしれない。哲学や宗教が果たしてどのくらいこの大問題に応戦できるか。

ふと、そんなことを北海道からの帰りの飛行機で考えていた。


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kyao

シルバーシートってありますよね? お年寄りや身体の不自由な方への優先席です。
目の前に、お年寄りや妊婦さんのような方が来れば、私は無条件に席を譲ります。それはシルバーシートであるかどうかに関係なく、です。だから私は逆にシルバーシートには座りません。何となく「席を譲ること」を強制されているような気がするからです。
こういうことは、普通、その人の善意や良心によって成されることではないでしょうか。乗り物内のトイレでタバコを吸わないと言うこともまったく同じだと思います。いつから人間は他の人に対して、こうも無責任になったのでしょう。
現在の刑法がすべて罰則によって成り立っているというのも悲しい話ですよね。本来、こうしたことは、人から言われるまでもなく「してはいけないこと」のはずなのに。
by kyao (2005-03-14 19:53) 

参明学士/PlaAri

kyaoさん、早速のレスをありがとうございます。

>目の前に、お年寄りや妊婦さんのような方が来れば、私は無条件に席を譲ります。

これこそ、本質的な人間の善意の連帯ですよね。そういうのを説明するのに面倒な理論など本当は必要ないはずです。黙って周りに配慮をするということが、何か「異常」なことのように思われている社会になってしまっているようです。そういうのを本末転倒というのでしょうね。

>人から言われるまでもなく「してはいけないこと」のはずなのに。

そうですね。「してはいけないこと」の絶対的な規範が存在するわけではないのですが、養老孟司さんが言うような「誰が考えてもそうでしょ」という言葉は一つのヒントになるかもしれません。人を助けよう、援助しよう、お互いがいい雰囲気でいたい、励ましたい、応援したい、というようなことは本来「誰が考えてもそうでしょ」だったはずです。しかし、今は、ともすればこの「誰が考えてもそうでしょ」が崩れている時代なのかもしれませんね。相対的な価値観が高まりすぎると起きてくる弊害です。自由を履き違えた風土の弊害と言って差し支えないと思いますね。これってkyaoさんや私が考えるような「当たり前の人間」が、減少しているということなのでしょうね…。
by 参明学士/PlaAri (2005-03-14 21:06) 

ひろっぴ

こんにちは。kyaoさんのような感覚、誰しもが少なからず持っていると信じたいのですが・・・。ある程度の強制力で「やらされる」ことで初めて自分の行動を自分にも周囲にも納得させる事が出来るのかも知れません。人が普通に持っている善意も、何かにお墨付きを貰わないと、それをやっていいのかどうか分からないのかも。
地域やムラの束縛から個人が解き放たれ自由になった現代人は、既に親兄弟からも事の善し悪しを体験的に学ぶことなく、法的な束縛がないと何も出来ない、何をやったら良いのか、どこまでが許されるのかが分からなくなっている、のでは無いでしょうか。
by ひろっぴ (2005-03-15 08:51) 

まみょん

こんにちわ そして おかえりなさいですね

ステキな北海道を思い出しました。昔 今のツレアイさんが北海道に転勤してた頃家とか仕事とかやりくりして北海道まで会いに行った事思い出しました
冬の北海道には いい思い出がいっぱいです

別のブログでも話題になっていたのですが シルバーシートだけじゃなくて
例えば 電車の中での メイクや 食事・・・ あれも私的には
なんとも釈然としないと言うか 納得いかないというか
kyaoさんではないですが してはいけないことなんて 小学生の娘でさえ
本質的にわかっているのに なぜ平気で出来る人がこんなにも増えてしまったのでしょうか?
私もシルバーシートも座らない と 決めているわけではなく
「座るべき席ではない」と思っています。それが当たり前なのだとも

個人の善悪判断はあるとしても 本質的にモラルとかマナーとかって
声をあげて言わなくてはならなくなっているのは
なんだか 哀しい気がします
by まみょん (2005-03-15 09:49) 

参明学士/PlaAri

ひろっぴさん、善意の発動のきっかけが「何らかの規範によるもの」だとしたら、とっても寂しいことではありますよね。
>法的な束縛がないと何も出来ない、何をやったら良いのか、どこまでが許されるのかが分からなくなっている…これは十分に考えられると思います。「法」は人間という生き物がそれなりに「定めたもの」であって、絶対的に正しい規範であるという根拠は存在してはいません。ですが、普通に暮らしていく分には法などはそれほど「意識する必要のないもの」だとも思うのですね。良識が生活を推進させている場合は、「法」に触れるようなことはあまりないでしょうし、仮にあったとしてもすぐに自らを軌道修正できるはずです。
ただし、「法」自体がゆがんでいる場合にはまったくの別問題ということにもなりますけれど…。そのために政治家がいるのですが、あまり的確に機能しているとは思えないケースも多いですね。

まみょんさん、ただいま帰りました~。ありがとうございます!
>電車の中での メイクや 食事…食事って、酷すぎますね。もはや考える力が落ちて来ているというしかないのでしょうか。メイクだって「身だしなみを整えるために行う」はずなのに、行為自体が「はしたない」ことに気付かない。
どうなっているのでしょうね。自由という言葉が独り歩きしすぎて、時間の使い方があまりにもラフになってしまったのでしょうか。
首都圏の電車では「女性専用車輌」というのがありますが、その中はどうなっているのでしょうか。それでもところ構わずメイクしちゃうのでしょうかね…。
まさか、覗くわけにもいきませんしね^^。
by 参明学士/PlaAri (2005-03-15 11:06) 

まさ

レスのレスになっちゃいますが・・・。

恐怖による制圧、というものがなければ統制できない事実はやはり今後も変らないでしょう。人の善意に期待することは重要と思いますが、やはり、当たり前の善意と言うように一般化するのは不特定多数に対しては難しいでしょうから。

これらに対して
>相対的な価値観が高まりすぎると起きてくる弊害です。

この見解には、なるほどなと思います。
システマティックな状況把握が進むと、道徳の、いわゆる「誰が考えてもそうでしょ」と表現されているものに対して、浅はかな極めて身勝手な判断をする場合が出てくるということでしょうか、
例えば、電車のドアの前の地べたに座ったり、化粧したりする人たちが言う言い訳としてよく聞くのは、「他人に迷惑かけてないじゃん」という意見。この(当人達からすれば)一見システマティックで相当な判断をしているかのようなこの意見は、やはり子供らしく、視野が狭い。

「相対的な判断」は、相当な視野と、相対的以前に絶対的な良識、道徳観を持ち合わせてこそ、より明快な「意見」として価値を持つのでしょうね。

「人を傷つけてはいけない」という理由を、「法律で決まっている」と教育してしまいそうな世の中。あまりに切ないですよね。
by まさ (2005-03-15 12:12) 

僕はコンビニなどのトイレに張ってある『いつもキレイに使って頂いてありがとうございます』が、わりと好きです。
by (2005-03-15 18:11) 

GEN11

こんにちは。
モラルがないからルールにするしかない。
そういえばそんな記事を書いたことを思い出しました。
トラックバックさせて下さい。
by GEN11 (2005-03-15 18:23) 

参明学士/PlaAri

まささん、>恐怖による制圧、というものがなければ統制できない事実~…そうですね、この現状を認めなくてはならないということになるでしょうね。仮に善意と言うものの「普遍性」がどこかに実在しているものだとしたら、それを発見・創出するのが真の人間の役割ということになるでしょうね。

相対的な価値観の高まりについての解釈ですが、ほぼ、まささんの仰られている内容は私の考えていることと同種であると思います。もう一歩踏み込んで言うならば、相対的価値観に基づく本人の行動が他者の自由を侵害すると考えられるケースの場合は、法によってその「価値観」は規制されることも余儀なくされる蓋然性があるということになるでしょうね。人を傷つけるとか、盗むとか、「自らがそうされては困るもの」を他人には強要するという価値観は否定されるべきです。その時は、各人の価値観の主張が肯定されないことも、他者の自由を守る上では不可避になってしかるべきでしょう。既出の「電車のドアの前に座っている人」に関しては、まささんの仰っている言葉がとてもしっくりくる判断だと思います。

ソクラテスが考えたことは要するに、「誰が考えてもそうでしょ」を民衆から対話によって引き出すことでした。そしてその「誰が考えてもそうでしょ」を絶対的な正義に設定しようとしていたわけです。この試みは現在の人類にとっても大きな示唆を生むはずです。ただ、より本源的な悩みとしては「誰が考えてもそうでしょ」が歪み始めているかもしれないという、恐ろしい現状かもしれません。

スナフさん、私もその標語好きです。どこかの海水浴場とかでも、「いつもきれいな海岸にしてもらってありがとうございます。」と標語が立っていたりして、気分が良くなったことを覚えています。実際にそこはきれいでしたけれど、やっぱり例外は存在するでしょうね。それをどうするか、人類の悩みのようです。

GEN11さん、TBありがとうございます。ありましたね、その記事。よく覚えています。ある種、徹底した法治国家というものを目指すのも一定の答えにはなるのかもしれません。ただ、そのためには人口に対する警察官の数が足りなすぎますね。本当はモラルや良心で人間が動いてくれれば、それ以上に良いことはないのですけれどね。
by 参明学士/PlaAri (2005-03-16 01:15) 

kabo

はじめまして。最近so-net blogを始めたばかりの初心者です。
ワタシ、人間は生まれながらに「善」って、信じたいです。
恐怖でコントロールする方法は、その場ではすごく有効だけど、
かえって人間の本性としての善を曇らせてしまう気がします。
この前、幼稚園バックを下げた、多分4,5歳くらいの男の子が、
歩きながら一生懸命何かを見つけては拾っている姿を見かけました。
何を拾ってるのかなって思って見ていたら、ポイ捨てされた吸殻や
ゴミ、空き缶を拾っていたんです。男の子の後ろから、お母さんらしき
女性が、ニコニコしながらプラスチックバックを広げて付いて歩いていて、
その子は拾ったゴミを、そのつど袋の中に入れていました。
男の子が「ママ、地球さん、気持ち良いって言ってるね~。」って
楽しそうにその女性に話し掛けては、また、歩きながら、道端に
何度もしゃがみ込んで一生懸命拾っていました。
本当は、そんな小さな子供でも、何が良いことで何が悪いのかちゃんと
わかってるんじゃないかな?って感じました。自分の「エゴ」が育つにつれて
そういうことを忘れたふりが上手くなっちゃうだけで・・・・。
その光景を思い出すと、今でもほんわか幸せな気持ちになっちゃいます。
by kabo (2005-03-17 18:40) 

参明学士/PlaAri

kaboさん、はじめまして!幼稚園の子供のお話、とってもすがすがしいお話ですね。そういう子が育っていくと将来どのような発想で地球に貢献してくれるかなと期待してみたいですね。
人間であるということは、やはり時により怒ったり、落ち込んだり、喜んだり、人を励ましたり、悪口を言ったり、色々な精神状況になるということは否定しようのない事実だと感じます。ですから、人間は元来考えられてきた「元々善、元々悪」という2元的な区分ではなくて、その両方を持っていて、心の持ちようによってその2つをコントロールすることが出来るというのが本質かもしれないなぁと考えています。
よくテレビで報道される「殺人事件」というのがありますよね。で、大概レポーターは犯人の家にインタビューに言ったり、近所の人からの評判を聞きだしたりしています。あの時に興味深いのは、「あんなにいい人だったのに」とか、「信じられない」、「子供好きで挨拶もきちんとする人」等、犯人は周囲の人に「善」の評価で見られていることが少なくありません。恐らくその善も、ウソではなかったことでしょう。時として何かの衝動に駆られることもやはり人間である以上、誰でも備わっていますよね。だから、あのような事件は他人事には思えなくなってきます。
大人になるにつれて思考能力が発達してきて、「ゴミを拾うこと」と、「ゴミを捨てるのをやめさせること」との「善」の兼ね合いに、冒頭の幼稚園生も悩んでくるかもしれませんね。純粋な「善」の気持ちが一体どちらを判断するだろうか?というような難題が待ち構えているように思えてなりません。
ある哲学者は、「線路に置石をしたらそいつは悪人だ。だが、それを知っていて取り除かない、あるいは犯人を更正させないというのは、電車が転んでしまうという結果から見れば全くの同罪である。」とまで述べていました。
ゴミを拾う善、ゴミを捨てさせない善、我々の前に横たわっている問題は難題ばかりですね。

この殺伐とした社会において、kaboさんが仰ったような幼稚園生のような「善の存在」があることは、確かなる光明であると期待したいと思っています。心も温かくなりますね^^。
by 参明学士/PlaAri (2005-03-18 10:48) 

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