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じっとしてはいられない。 [思索の散歩道]

「おろかもの」の正義論

「おろかもの」の正義論

  • 作者: 小林 和之
  • 出版社/メーカー: 筑摩書房
  • 発売日: 2004/12/07
  • メディア: 新書

とある本を読み終えた。『「おろかもの」の正義論』という書だ。法哲学者である小林和之氏が著している。唸った。思わず唸ったのだ。
普段から私が考えていることがきちっと整理されていた。整理されているものを読むと、自分の考えもより輪郭がすっきりしてとてもありがたい。多くを書けないが一つだけ示しておきたい。

・『幼い子供の命を救う以上に正しいことがあるだろうか。助けることが出来るのにあえて見殺しにするほどはっきりした悪があるだろうか。 ~中略~ 一番正しいことを放置しておいて、どうしてわれわれは自分を道徳的な存在だと考えることが出来るのだろうか。』…本書 P215 第11章「正しさ」の世紀へ から引用

世界では飢えている人がいることを我々は少なからずメディア等で知っている。知っていながら自分達は美味いものを食べ、そして残している。飢えている人がいるのを「知っている」にも関わらず。このことを我々は一度は考えたことがあるのではないか。果たして考えただけなのか。飢えている人がいながらにして、それを助けようとしない。我々は「正しい、あるいは道徳的な」人なのか。親も学校の先生も、社長も、誰もそのことを叱りはしなかった。だから別にこのままでも「正しい」のか。本当に正しいと言えるかどうか。

だからといって、「恵まれない人のためにボランティアに行け」などと著者は言っていない。まずは認識することの重要性を説いている。飢えている人を知りながら、むさぼっている我々が現実にいることを。ホームレスの方がいても見向きもせずに通り過ぎていることを。スマトラの大地震と津波の悲惨さを知っても、自分や近しい人の為に仕事に行ったろう。新潟があれほど大変でも、うまい酒を飲んだだろう。これが現実だ。我々は「間違った生き方」をしたのか。
著者は言う。では我々は飢えた人に対して「冷たい」と言えるかどうか。弱い者など構う必要はないと思っているかどうか。被災者に対する愛はないのか。でも、それは違うだろう。何とかしたいと思ったり、同情したり、考えを及ぼしたりするものだ。それが普通であり、格別おかしいことではないだろう。それでいて具体的に「正しいこと」へ踏み出せない理由はなんだろう。「正しいこと」を拒否しないし、それどころかしたい位なのに出来ないのは何故か。

問題はそこだ。悩みはそこにある。私はわからないから諦めてきたことを素直に認めようと思う。

今はそれだけを書き残す。この本は考える機会を与える良い本だ。問題点がわかる。それは言える。もし、私自身の考えがまとまったら加筆するかもしれない。

でも、今は書けない…。


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天然

初めまして。
私も分からないから諦めてきました。
気になったのは正しいこと」という言い方は、誤解を招くような気がするのですが。
by 天然 (2005-03-08 04:41) 

苦悩、ですね。
ここからの参明学士さんが楽しみでもあります。
正しいこと、は単純なようだけど、思うこととすることには壁があるような気がしました。僕も今はコレだけ。。。
by (2005-03-08 07:50) 

kyao

>認識することの重要性
この中に、すべてのことが隠れているような気がします。
世界中に飢えている人がいる。でも、そうした人たちすべてに食べ物を分け与えることは出来ません。「だから何もしない」のではなく、「自分が必要としている分だけしか食べ物を摂らない」「もったいない食べ方はしない」ということは出来ますよね。つまりは「自分が出来ることを、現状の中から見つけよう」ということだと思います。
同様のことはすべてのことに言える様な気がします。被災地でボランティアをしたり寄付を募るばかりでなく、みんなでニュースを一生懸命見て現状を知ったり、口コミやブログといったメディアで広く知らせることも大切ではないでしょうか。それによって地方団体ばかりでなく、国を動かすことも出来るかもしれないのですから。
人間ひとりに出来ることはタカが知れているかもしれません。それでも出来ることはきっと山のようにあるように思えます。理想論かもしれませんが、個々人が出来ることをしっかりやる。それは「世界を革命する力」になるように思えます。
by kyao (2005-03-08 08:10) 

アキオ

おはようございます、
オイラは独善的かもしれません、自分が生きてこその正義、だと思ってるふしがあるからです。
確かに、災害地のボランティアに参加したい、と思っていても、しなかったり、、してるわけですが
(本気なら、仕事サボってでも行くでしょうから、できない、ではなく「しない」と表記しています)
まず自分、と思ってることは間違いないようです、、間違っても正義の人、ではないなぁ、、
by アキオ (2005-03-08 08:21) 

papa007_

手を差し伸べて欲しいと思っている人たちが、blogにアクセスしているこの今も、世界中にたくさんいる、ということは僕も認識してます。僕の想像力が足りてないのか、自分の愛する家族が、そのような状況になったことを具体的に想像すれば幾ばくかなりとも動けるはずなのに。
by papa007_ (2005-03-08 14:55) 

m-kurata

是非読んでみたい本です。「道徳」「正しさ」ということを、改めて考えてみる必要がありますね・・・。
「道徳」「正しさ」というのは、民族性・国民性まで考えなければいけないでしょうね。でも、日本人としてこれらのことを考えていく必要があると思っています。
読んでみて、またコメントしたいと思っております。
by m-kurata (2005-03-08 17:29) 

参明学士/PlaAri

皆様、丁寧なコメントをありがとうございます。実はこの問題に関してまだ私の考えがきちんとまとまっていません。もう少しだけ考えてからコメントをさせて頂きたいと思います。ただ、今の段階で一つだけ言えることがあります。それは天然さんも仰るように「正しさ」の誤解ということが十分にありえるということです。
例えば、
・このblogの管理者は私、明士であることは正しい。
・人を助けることは正しい。

この2つの「正しい」は明確に立て分ける必要があるということです。「正しさ」の議論は事実を言う正しさか、規範・倫理・法律等に基づいた正しさかを正確に把握することからスタートします。今のところ、それだけははっきりと言うことができます。

皆様、本当に申し訳ありません。もう少しだけ時間を下さい。必ずレスを致します。もう少しだけお時間を下さい。
by 参明学士/PlaAri (2005-03-08 22:22) 

AJISAIstreet-Ring

考えさせられる文章でした。
私も 正しさを知りながら行動出来ない 立場にいます。
ただたたずんで困り、時には涙しながらも普通に暮らしています。
援助等、色々な手段でそれを行動出来ると知っていながらもです。

『正しさ』とは誰が決めるものなのでしょうか?

みんなそれぞれの考え方があって、人数の多いものが『常識』とされています
ですが、果たしてその『常識』自体が『正しさ』に繋がっているのでしょうか?
それぞれの中にある善悪の判別がそれぞれの中にいるものによって決められている中で、『正しさ』をどこへむけてどう定義していけばいいのだろうか?

そう一人で考えてしまいました。
いい機会をありがとうございます。参明学士さん同様考えたいと思います。
by AJISAIstreet-Ring (2005-03-09 00:20) 

まさ

長くなったので、記事にしてトラバしましたです。
このことに関して僕なりに考えていることです。。
by まさ (2005-03-09 02:25) 

neroli

とても考えさせられました。
わたしも、ひとりひとりが認識を変えること、
意識改革をすることで、世界は必ず変わる、
と確信しています。
わたしも、じっとしてはいられない気持ちになりました。
by neroli (2005-03-09 10:10) 

参明学士/PlaAri

まだまだ意を尽くせないとは思いますが、コメントレスをさせて頂きます。
正しさの実行の為に今考えられること。その一つのヒントは「Think globally,Act locally(地球的に考え、地域的に行動する)」ことかもしれないと考えはじめています。もちろん、答えなどではありませんが。

天然さん、はじめまして!この問題はそう簡単なことではないと思います。ですから分からないという答えは正しくはないでしょうけれど、恐らく間違いではないはずです。
ご指摘の「正しいこと」という表現はいくつかの意味を含有していますので、状況状況によって的確に解釈をしなくてはいけないものだと思います。

スナさん、苦悩です。緩やかでありながら持続的な確かな苦悩です。また改めて記事にしようかと思いますが、それはサイト上になるかもしれません。心のどこかで「しょうがないじゃないか」という囁きが聞こえてくる以上、常に私をさいなんでくる問題だと感じています。

kyaoさん、基本的に「認識すること」が正しさの実行のための第一歩であるということは共通理解として定義しても良いかと思います。一歩踏み込んで「正しいこと」に質・量のどちらの側面からも軽重があると仮定するならば、もう一つの重大な問題が我々の前には横たわってきます。先進国の国民でない不幸(開発途上国民である不幸)が必ずしも先進国が抱える諸問題に比べて「不幸」であるかどうかという提起です。先進国に衣・食・住が揃っていると言っても、親が共働きで食事はコンビニ弁当の連続、着るものも大量生産された画一的な供給、過密で庭も確保できない住宅状況、近隣住民との連帯感の喪失等を鑑みる時、果たして開発途上国との絶対的な幸・不幸の差の度合いを定義できるかどうかということなのです。当然、それを考える上でも「飢餓」や「病気」が幸福ではないことはあまりにも異論の余地はありません。しかし、各人の発想や意見を相対的な価値として認容しようとする社会においては、「飢餓よりもいじめや殺人の方が不幸だ」と判断し、だからこそ、「自分たちの方が管理社会にねじ込まれた不幸な人間なんだ」と判断する人のことを否定することは容易なことではありませんし、それを否定することが「正しいことだ」というルールも存在しませんよね。
今、我々がまず最初に取り組むべきことは、kyaoさんが最初に挙げられた「認識」(ここでは不幸な人がいるというだけの認識にとどまらず、基準とする幸、不幸を各人が各人なりに定義すること)を深めることなのかもしれませんね。この深みこそが人類の共通の「感覚としての正しさ」に寄与するもの、あるいは近いものであれば、光明を見出すことができるかもしれませんね。このスペースでは意を尽くすことは到底不可能ですが、考えがまとまればまた記事化していこうと思っています。

akioさん、>自分が生きてこその正義、だと思ってるふしがある…これでよろしいのではないでしょうか。まずは生きなくては正も悪もありません。そもそも何かの存在自体には「正・悪」は無いはずです。ナイフや包丁はそれ自体が悪ではありませんし、正しさは人と人との間に存在するものではないでしょうか。ですからakioさんの仰ったことは一番の基本だと私は思います。誰かが正義を決めている(例えばアメリカさんなど)現代では、それにただ従うのが楽な生き方とも言えるでしょう。ところが自分が決めた「正義」に生きようとすれば、これは大変なことです。軋轢や、非難、足の引っ張り合いなどを乗り越えなくてはいけませんから。ですから、自分の考える、感じる「正義」が多くの人に受け入れられるものならば、きっとそれは「正義」に近いものでしょうね。もちろん「近い」と保証する規定は存在しませんが、その難しさを人類は背負っていかねばならないのかもしれません。そういう生き物なのかもしれません。

papaさん、>自分の愛する家族が、そのような状況になったことを具体的に想像すれば幾ばくかなりとも動けるはずなのに。…やはりこれは我々が悩ましい大きな問題の一つですね。人類皆兄弟という理念を掲げても、地球の裏側のアルゼンチンの少年に思いを馳せる人はほとんどないでしょう。これを無慈悲というか、無関心と言えるかどうか。とても難しい問題ですよね。我々に出来ること、考え続けているところです。

m-kurataさん、はじめまして!国民性から考える「正しさ」という視点は重要だと思います。どんなことを「正しい」と感じるかということに関しては国ごとに、地域ごとに違うといってもおかしくありませんからね。その上で、地球上の全ての人間が納得できる「正しい感覚」を創出していくのがこれからの人類の役目なのかもしれません。その逆はある程度できていると思うんです。「戦争は悪だ」と多くの国の多くの人間が共通して感じていることだと思います。これの「正しさ」版を人類は渇望しているのではないでしょうか。そのためにも一段深い「認識」というものが必要になってくる気がしています。

凛さん、>『正しさ』とは誰が決めるものなのでしょうか?…これが人類の悩みでしょうね。今はどうやらアメリカが決めているようですが、世界の半分以上の人がこの「正しさ」には反対していますね。そして紛争まで巻き起こしている状況です。当然「正しさ」として認めるわけにはいきません。正しさの定義は人類の課題です。
>みんなそれぞれの考え方があって、人数の多いものが『常識』とされています。ですが、果たしてその『常識』自体が『正しさ』に繋がっているのでしょうか?…仰るとおりです。これは民主主義の議論とも相通ずるものでありますが、結局のところ「常識」を構築しているのは大多数という実態の捉えにくいものです。大多数の賛同がすなわち「正義」となっているのが現状の民主主義です。およそこの状況は真理としての「正しさ」とは内容を異にするものです。待ち構えている問題はまさに山積していますね。

まささん、今からTB見に行きます。こちらからもTB打ちますね。

ネロリさん、>わたしも、ひとりひとりが認識を変えること、意識改革をすることで、世界は必ず変わる、と確信しています。…これはかなり今の段階で人類が出しうる大きな結論として有効だと感じます。国家といっても人の集合体です。人の集合体といっても一人一人です。ですから一人が変わることの価値は、恐らく国家の変革へのアプローチとして重要なスタンスを占めるはずです。あとは「どう変わるか」ということです。隣人を愛せと言ったキリストや、目前の人を励ませと説く釈迦の哲学が現代に蘇ってくる素地もあるのかもしれません。我々がどう変わるか。これはとても重たいことですが、思索を積んでいかねばなかなか答えを見いだせそうもありません。
by 参明学士/PlaAri (2005-03-09 18:02) 

dino-tail

今まで抱えてきたジレンマを、この記事が形にしてくれました。
参明学士さん、ありがとうございます。
で、これからどうしようか?どうするべきか?と言う
具体的ビジョンを持てない、貧困な脳の自分をみつけてしまいました。
まず、認識。そしてちょっとの背伸びでできることを考えてみようと
思います。答えが出るのがいつになるかは不明ですが…;
ともあれ、感謝。感謝です。
by dino-tail (2005-03-15 23:37) 

参明学士/PlaAri

dino-tailさんも同じジレンマを抱えておられたのですね。
この問題はかなり難しい側面を含んでいますよね。まずはやはり認識を深めていくことかな、と考えています。私もdino-tailさんといっしょで具体的ビジョンを持っておりません。それだけに苦しいところですよね。
これからも一緒に考えていきましょう。よろしくお願い致しますm(__)m
by 参明学士/PlaAri (2005-03-16 01:39) 

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