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死の壁 [思索の散歩道]

大ヒットしたの養老孟司氏の「バカの壁」の続編といってよい位置づけの書。それほど中身が違うとは思えない。要するに人間一般の「認識」にメスが入っていると言うことである。いや、この場合は「日本人一般」と表現した方が穏当かもしれない。今回はそのテーマが「死」ということであるのだ。我々が普段意識しないところの「死」ということについてどう考えるべきかを問いかける内容となっている。「死の壁」と言う以上はもちろん、「死」の認識に対して何らかの「壁」があることを提示しているわけだ。この世で一番確実なこと。それは「死ぬこと」だと言う。過去の歴史上でも、どのような人物だろうが確実に死んでいるわけだ。確実に自分に到来してくるのに、普段まるで意識していないのが「死」と言うことなのだと彼は言う。

何故、人を殺してはいけないのか

 「何故、人を殺してはいけないのか」という理由を著者はこう説明する。「それは後戻りは絶対にできないからだ」と。人類はスペースシャトルで宇宙に行くことが「凄い」と思っている。しかし、「蚊という生命」を一匹作れるかというと、そんなことは絶対にできない。できないのに人間は簡単に「邪魔だ」と言う理由で「蚊」を殺す。さて、いかがなものかというわけである。死刑制度に反対する勢力の主張も似たような内容である。「死刑にしておいて冤罪だったらどうするんだ」と。後戻りできないのだから、死刑などやめなさいというわけだ。スペースシャトルはどうにかしてでも「作れるでしょう」と。死を与えたら最期、絶対に後戻りできない。だから、殺してはいけないという論理である。私はこれはこれで説得力を持っていると思う。
 しかし元々、人間に限らず多くの出来事や事象は「後戻りできない」のではないか。著者の言うように変化するものは「自分」で、変化しないものは「情報」である。その点、異論はない。だが生命に限らず、「昨日の自分」にだって絶対に戻ることはできないのだ。人を殺してはいけないのは「殺した相手が元通りにならない」と言う意味での「後戻り不可能」だからではなく、「殺さなかった時の自分に戻ることはできないから」ということでもあるのではないだろうか。何やら「とんち」の様相を呈してきたが、その様なことだと感じるのである。実際、自分が「殺す立場」になったら、「殺す相手」が地上からいなくなって後戻りがきかなくなることよりも、「殺した自分」のことを背負って今後生きていく自信が持てないのではないだろうかという問題が頭をもたげてくるのである。だから「殺してはいけない」のではないだろうか。まともな精神状態ではない人には「後戻りできない」からダメだという論理は恐らく通用しないであろうが…。

死んだら「おしまい」の日本人

 興味深い指摘である。どうも、人間と言うのは「あるカテゴリー」に属している間はそのカテゴリー内のルールが世界でも同じであるはずだと錯覚しているケースが見受けられると思った。と、いうのも「死」を見つめる生者の感覚の違いが随分と露骨に出るからである。日本と中国・韓国との違いも出ているのである。一例として、政治問題として靖国神社の参拝に中国や韓国が猛反発するという事象が続いていることを挙げよう。
 中国や韓国は日本人が太平洋戦争の主犯格を靖国神社に祀っていること自体に強く憤りを表明しているわけだ。日本側の主だった主張としては、「戦犯なるものを決めたのは戦勝国の驕りである。日本が戦争に勝っていたらそのようなことには絶対にならなかったはずだ」と。故に「その「戦犯」の定義は普遍性を持たない一方的で「怪しげ」なものである」と、このような具合だ。なるほど、確かにそれもそうだ。ところが自国を侵攻してきた指導者が祀られている神社に、日本国の代表たる総理大臣が参拝をするなど「とても容認できない」という主張が中国や韓国の言い分である。これに対し「日本のことは日本が決める」と猛反発する方達も増えてきた。「もう戦後処理は法的に済んだのだから、ごちゃごちゃ後から言うな」と主張し、「さんざん日本はODA等でも貴国らを支援してきたではないか」と、このような主張になっているのである。もはや、水の掛け合いともいえる状況になってきていることは多くの国民が感じることであろう。この日本と中国・韓国の軋轢の間に、実は大きな「死の壁」が立ちはだかっていると言えるかもしれない。
 日本では東郷平八郎でも乃木大将でも死ねば「神社」になって祀られる存在となる。生きていた時とは明らかに一線を画すのである。一般人でも「戒名」を与えられ、生前の自分とは「区別」させられる。「死んだら別物」という感覚が強い。はっきりしているのである。換言すれば「こだわりがない」というか、「さっぱりしている」というか、そのようなところであろう。日本人と言うのは悪人でも死んでしまってはその人に対する「怒り」も維持し続けてはいられない質である。何となく許したり、あるいは許す意識などないままに記憶から消え去ったりしやすいのである。日本人特有の「無関心」とも実は関連しているのだろうか。それはここでは置いておく。
 ところが、中国と言う国は違うと著者は述べている。中国人は古代の故事にもあるように、対象とする人が死んだとしてもそう簡単に忘れたりこの世と一線を画したりはしないというのだ。「屍に鞭打つ」という故事を聞いたことがあろうかと思う。これは「伍子胥」という中国の有名な武将が、父と兄を殺した元君主を攻めた時の故事である。攻めた時にはもうその「君主」は死んでいた。つまり墓の中というわけだ。国を攻め落としただけでは飽き足らず、墓を暴いてその死骸に鞭を打ったのである。伍子胥はそうやって恨みをそそいだのである。凄まじい恨みであると考えるのは日本人だからかもしれない。向こうではそれが当たり前かもしれないのだ。ちょっと日本人の我々としてはそれは「異常」に映る。「死人なんだからそこまでしなくても」、と思ってしまう人が多いはずだ。それが今の靖国攻撃でも同様なのだ。未だに過去のことに汲々として締め上げてくる行動が日本人にはわからないのである。「賠償責任を果たした」とか、「条約で合意済み」という文言は中国・韓国の感覚としては「別問題」なのだろうと思われる。何故、侵略してきた親玉を「参拝」するのかということが、非常に大きな疑問であり、不満なのであろう。もし、中国が日本を占領していたならば靖国神社に押し寄せるか、「戦犯」の墓を暴くかして「屍に鞭を打つかもしれない」ということである。それ位、「死」の感覚が日本と中国・韓国では違いを見せているのである。そうした意識の違いが今日の摩擦の一部を引き起こしているのかもしれない。しかし、これは決して中国・韓国の政治的な意図を完全に否定するものではないことは付しておく。これらを「政治的」と感じ取るのも日本人の特色かもしれないが…。著者はこうした感覚を「共同体のルール」という言葉で表現していた。日本と中国・韓国では「共同体のルール」が違うとも言えよう。

死んだ後はわからない。だが…。

 「死んでしまった自分」を考えるのはやめなさいと著者は言う。死んだらその自分を客観的に見ることなどできないのだから、事実上「死んだ自分というものはこの世にない」という立場をとっているそうだ。だから、「死」も怖くないと言う。「寝てる間に死んだらどうする」とも問いかけている。意識の無いままに死ぬのだから「怖いと感じる暇」がないというわけだ。そして、死後の世界も誰も提示できるわけではないし、行って来た人がいるわけでもない。だから無駄なのだというわけだ。残るは、身近な人の「死」か、あかの他人の「死」しかあり得ないと言うのだ。それも一理ある。
 だが、私は「どう死ぬか」を自分で決めたい。いつ死ぬかは誰もわからない。しかし、「どう死ぬか」は「どう生きたか」で決まるものと思っている。仏教では「生死不二(生まれることと死ぬことは違うことではない)」と説く。この考えには賛成だ。そうでなくては「各個人の生き方」にも価値がなくなるし、「死」という出来事を経ることで人間が行ってきた全ての事柄を平等化されるのは解せないからだ。死後の世界が「無い」と考えるより「有る」と考える方が「死」に関して積極的になれるのではないかと思うのだ。そして「死」に関する積極性はすなわち「生」に関する積極性といって差し支えないだろう。死の積極性といっても自殺をするとかそういった意味ではない。自分も必ず「死」が訪れることを認識しておくという意味である。
 ここに取り上げた内容は本書のほんの一部である。脳死の問題や死の定義の難しさなど、広範多岐に渡って「死」を見つめている。著者の立場(医学者、解剖学者)ならではの観点は、読者に新しい視点を提供している。書の中では著者がお世話になった先生を「解剖した」時の話も登場する。もちろんその先生は望んで自ら「解剖の対象」になったわけだが、そのような状況での著者の心理描写などは普段は味わえないものであろう。
 余裕があるなら「バカの壁」とセットで2度ほど読まれることをお薦めしたい。内容の正誤を判断するだけではなく、「認識一般」を鍛える手段にはなろうかと感ずるからである。日本、あるいは人間という「共同体のルール」に無意識に囲まれている自分を客観視できるいい機会にもなろうかと思うのである。


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コメント 7

うむ。これは長文コメントかTBか、ですね。
是非時間をちょうだいして、書いてみたいとおいます。
by (2005-02-06 01:39) 

shirogane-kagami

「死」の問題は非常に扱いが難しい。難しいが故に、現代日本人はこの問題を避け、ただひたすら「生」の欲望を満たす方向へと「逃避」しようとしている。昨今の「健康ブーム」がそうだ。
「死」や「老い」に向かって行くのが怖いので、なるべく「長生き」しようと、それこそアガリクスやらメシマコブやら、はては昨今流行のコエンザイムQ10などのサプリメントや、ヨガやフィットネス倶楽部などの運動倶楽部に老若男女を問わずみんなが殺到している(どちらかというと中高年が多そうだ)。しかしかの大文豪ヴィクトル・ユゴーも言うように「人は生まれながらの死刑囚」なのである。どんなに健康維持やサプリメントに走ろうと、人は必ず死ぬ。明日にだって布団の中で冷たくなっているかもしれないのだ。「死」の問題を避けずして、「生」の問題をうんぬんできないのでは、と思う。
またこれは私的感想でもあるのだが、人生の価値は「生きた時間の長さ」ではなく、「生きているうちに何をしたか」で決まるという意見がある。アメリカの有名な学者にノーマン・カズンズという人がいるが、そのひといわく「人生の最大の悲劇は死(ここでは肉体的な死)ではありません。『生きながらの死』(精神的な死)です。自分の中で何かが死に絶える。これ以上に恐ろしい人生の悲劇はありません。大事なのは生あるうちに何をなすかです」。
「生きながらの死」――人間は「何の為に生きるのか」という「自分が生きる意味」を求める動物だという。その「生きる意味」を見出せなくなったとき、はじめて「生きながらの死」――精神的な死を人間は迎えるという。
生きる意味を失った人間は欲望を満たすだけの動物的な人生を送るようになってしまう。そういえば、世間では自分自身にとっての「生きる意味」を見出せなくなった為に、快楽や犯罪に走るなどして大事な人生を無為に過ごしている人間があまりにも多い。しかもそれは昨今、どんどん増えていっているように思える。このような事態にブレーキをかけるために、やはり「生と死を探求する」ための何らかの「哲学」を持つことが必要なのかもしれない。
by shirogane-kagami (2005-02-06 04:43) 

参明学士/PlaAri

スナフさん、TBあるいはコメントをお待ちしています。

銀鏡反応さん、長文のコメントをありがとうございます。ユゴーの「生まれながらの死刑囚」ってありましたね。執行刑期のわからない死刑囚だという表現もあったかと思います。仰るとおり死の問題を考えることを避けてはならないと思います。「人は生きたように死んでいくよ」と葬儀屋に勤めている友人が言っていました。その人の人生を決して知っているわけではないはずだが、彼に言わすと「死相」を見ればわかるのだそうです。
ノーマン・カズンズ氏の言葉。至言ですね。日々我々がどう生きるのかということに視座を置いているのでしょう。ギリシャの哲学者であるセネカは「人生最大の損失は明日に依存し今日を失うこと」と述べていました。
生と死を扱う哲学…ですか。そうなるとほとんど宗教の分野にも入ってきますね。土着するアニミズムから世界宗教まで数々の宗教が存在しますね。哲学や科学や諸学問を追求しぬいていく過程で、そしてその結果で、どこかしらの「信」と言うものを避けられないと思います。宗教論は非常に難しいテーマですが、世界の不安定要素を「宗教対立」のみにあてがうのは正しくはないのではないかと思っています。むしろ宗教も生き残りをかけて競争されていくものではないでしょうか。真理に沿うものは残り、沿わないものは滅していく。そんな気がしてなりません。死の問題とは離れてしまいましたが、やはり人類が遠くの昔から悩んで止まない事実。それが「死」なのでしょうね。
by 参明学士/PlaAri (2005-02-06 16:01) 

呉の伍子胥や越の范蠡がそれぞれ参謀を務めていましたね。その結末も。
二人の参謀の生き様はとても参考にしています。
by (2005-02-06 19:37) 

参明学士/PlaAri

mizusatoさん、こんばんわ!

>伍子胥や越の范蠡

ちゃんと漢字変換されるのですね(笑)「はんれい」なんて無理かなぁなんて思うほどでしたけれど…。伍子胥の最後は壮烈でしたね。墓暴きもそうですが、彼の強烈な人生が指し示す方向は現代の我々も学ぶところが多いと思います。君主が暗愚になってしまうと、いい個性も活かせない。やはり現代も同じようなことを繰り返しているようですね…。
by 参明学士/PlaAri (2005-02-06 23:13) 

AJISAIstreet-Ring

初めまして
ブログ初心者の凛といいます

とても感慨深い文章で考えさせられました。本も読んだことがなかったので
死んだあとを考えても仕方ない  確かにな、と納得してしまいます
でもそれでもその先を知りたくなってしまうのですよね(笑)
死後の世界があると思うだけで救われた気分になれる自分がいる気がします

死の世界を考えなくなった時、悟りがひらけるのでしょうか?
・ ・ ・ ・ 今思うと2月初旬の記事なのですね!書いてよかったのかな(汗)
by AJISAIstreet-Ring (2005-03-04 00:18) 

参明学士/PlaAri

凛さん、こんばんわ!コメントありがとうございます~。これかもどうぞよろしくお願いしますm(__)m。いつの記事に対してのコメントでも大歓迎ですよ!
死の先を考えることって私としてはとても大切なことだと思っています。人に限らず生物は全て「死」は避けられませんし、避けられないからこそ考えるべきかもと思うんです。哲学的には「生死」の問題をどうしても扱わなくてはいけなくなるケースが多いです。
そもそもどうして「私」はいるのか?という疑問にぶつかっていくわけですから…。他者の死を通じて「死」が何であるかを実は人は知ることが出来るのだと思います。その意味で「死」のことを考える意味は十分にあるはずと思うのです。葬儀屋の友人が「人は生きたようにしか死ねないよ」と言っていたのが印象的です。考えさせられる言葉ですよね…。

今から凛さんのところへ遊びに行きます(^_-)
by 参明学士/PlaAri (2005-03-04 00:27) 

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